「日本アパッチ族」は、東京オリンピックが開催された一九六四年三月に発表された、小松左京初の長編小説です。
同年八月発表の「復活の日」と同様に、書き下ろし作品であり、出版元である光文社の大々的な宣伝展開、初のコミック化、また映画化も企画された、小松左京にとってエポックメイキング的な作品でした。
そして、「日本アパッチ族」こそが、代表作となる「日本沈没」が生まれるきっかけとなったのです。
食べ物のない処刑場同然の流刑地に追いやられた人々が、瓦礫の中の鉄を食べることことで強靱な新人類に生まれ変わり、その生存をかけ人類との空前絶後の戦いを繰り広げる、SF的醍醐味満載で、まさにSF作家小松左京の初長編に相応しい物語ですが、実は、本人は、けっして本格的なSFではないと言い続けました。
【妻のためのラジオドラマ】
小松左京は、1958年の新婚当初、西宮の六畳一間のアパートを借りていました。 父親の工場の立て直しに奔走するも、うまく行かず、やけ酒をあおり、いつも帰りは深夜遅くになっていました。
新妻は、毎晩、独りでラジオを聞きながら待っていましたが、小松は、ある日その大事なラジオが部屋から消えているのに気づきました。
ついにラジオまで質草になったかと、不憫でたまらず、そこで「ラジオドラマのような面白い物語を妻のために書こう」と決意し、毎晩のように、ノートに物語を書いて工場に出勤するようになりました。
妻は面白がってノートを読み、近所の奥さんにも見せて回っていましたが、「鉄を食べるなんて、気色悪い」と評判は今一つでした。
しかし、妻は続きを読みたがり、その求めに応じ小松は書き続けました。
それが後の、「日本アパッチ族」です(実はラジオは質入れしたわけでなく、故障で修理に出していただけでした)。
【日本沈没へとつながる初の長編小説】
小松が、妻のために書いた物語は1964年3月に初の長編小説「日本アパッチ族」として光文社から出版されました。
光文社では10万部を目指した広告展開をしたが、7万5千部しか売れず、続編か別のものを書くよう促されたため、「日本沈没」を執筆することになります。
【初のコミック化・漫画脚色は、やなせたかし先生】
小松左京の原作は、さいとう・たかを先生や一色登希彦先生による「日本沈没」、石ノ森 章太郎先生の「くだんのはは」、松本零士先生の「模型の時代」、モンキー・パンチ先生の「時間エージェント」など様々な形でコミック化されていますが、初のコミック化作品は「日本アパッチ族」です。
漫画脚色は、先ごろ亡くなられた、「アンパンマン」のやなせたかし先生。 週刊漫画タイムズの1964年5月1号に掲載されました。 限られたページ数で、見事に原作のイメージを伝え、なおかつ、原作では枚数が多いとの理由で出版社の指示で泣く泣く割愛せざるを得なかったヒロインを巡るエピソードも、なぜかこのコミック版では挿入されています。
*やなせ・たかし先生が漫画脚色した「日本アパッチ族」は、「小松左京原作コミック集」(小学館)に掲載されています。
【開高健先生と高橋和巳先生との関係】
「日本アパッチ族」と同じような題材で書いている者がいるという話を聞き、小松がコンタクトを取ったことが、開高健先生と知り合うきっかけとなりました(開高先生が書いていたのは、「日本三文オペラ」です)。 二人はすぐに意気投合し、無二の親友となりました。
一方、大学時代からの大親友である高橋和巳先生が「邪宗門」を書いた頃、小松が、高橋先生に「『日本アパッチ族』のやり方をぱくったな」と尋ねたところ、高橋先生は「ばれたか」と言って舌を出して笑ったとのエピソードが残されています。
【幻の映画化は岡本喜八監督、クレージー・キャッツ出演!】
「日本アパッチ族」は東宝で映画化が検討されており、実現していれば小松左京の初の映像化作品になったはずです。
監督には「日本のいちばん長い日」や「独立愚連隊」の岡本喜八監督、出演にはクレージー・キャッツが予定されていたとのことです。 山田信夫さんによる脚本は、「シナリオ」1964年11月号に掲載されています。
【ラジオドラマ化で、芸術祭、ギャラクシー、ABUの大賞受賞】
小松左京が亡くなった、2011年に、「日本アパッチ族」は、「鉄になる日」というタイトルのもと毎日放送ラジオで関西ローカル向けに放送されました。
制作当時絶版作品ということで、スタッフは古本屋でみつけた表紙の擦り切れた文庫版の「日本アパッチ族」から脚本をおこし、現代風のアレンジを加え、凝りに凝った効果音を駆使し、想像力を刺激する壮大で楽しい作品に仕上げました。 「鉄になる日」は、文化庁芸術祭大賞(ラジオ部門)、第49回ギャラクシー賞ラジオ部 門大賞、ABU(アジア太平洋放送連合)大賞と、多くの賞を受賞しました。
©MBS