「たった十秒のできごと」(『大震災`95』より)

小松左京が、阪神淡路大震災から3ヶ月後に毎日新聞で連載した『大震災`95』で書き残した、震災の記録です。

災害を書きとめ、新たな災害に備えるための、小松左京の願いがこもっています。

辛い描写ですが、お読みいただければ幸いです。

1995年5月20日 毎日新聞掲載「大震災`95」より

たった十秒間のできごと

それは、「たった十秒間」のできごとだった。 --あの震源地明石海峡、マグニチュード7・2の「兵庫県南部地震」の激しい揺れは、そんな短い間だったのだろうか?

私自身は、実感的には、最初の激しい上下動から、引き続いて襲ってきた強烈な、みそすり運動型の横揺れが一応収まるまで、最低二十秒ぐらいは続いたように感じられたのだが……。震源地にもっと近い所に住んでいた友人は、「三十秒」は続いたと、直後に語った。

だが、地震計に記録された「主震」の持続時間は、「十秒間」を示しているのだ。

一月十七日の午前五時四十六分五十二秒までは、神戸市、そして阪神間は、西空に傾いた満月の光に照らされた、美しく、スマートな住宅地帯、そして高速道路や高層ビル、無数のガントリークレーン、巨大な工場施設群など、ダイナミックな近代産業の象徴が、これから新しい年の、新しい活動に入ろうとして、静かに覚醒前の息遣いを始めたところだった。阪神高速、湾岸道路の高架上には、オレンジ色のナトリウムランプの明かりが連なり、その間を乗用車やバス、トラックの光が動いていた。幹線道路の辻々には青、黄、赤の信号灯が明滅し、少しずつ数の増えつつあった車のヘッドライトや赤いテールランプが、生命の脈動のように止まったり、流れ出したりしていた。JR西日本、阪神、阪急電鉄の、始発、二番目、三番目の四両連結、六両連結の電車も、ヘッドライトを輝かせ、乗客の少ない車両の窓からいっぱいに明かりをあふれさせながら、駅の明かりから明かりへと動いていた。 --静かな住宅街の道路には、各戸の門灯や、辻々の常夜灯が柔らかい光を投げ、神戸港の埠頭では、巨大なクレーンの列が夜空に黒い影を浮かばせ、何隻かの貨物船やフェリーは、舷灯をつけて出港の準備にかかっていたろう。ポートアイランド、六甲アイランド、芦屋浜シーサイドタウンの高層ビル、高層マンション群では、ハロゲンランプの青白い光が、そのスマートな偉容の一部を照らし出していた。高層ビルの頂には、赤い航空灯が静かに点滅を繰り返していた。まだほとんどの市民は温かい寝床の中で眠っていたが、マンションの窓のいくつか、そして住宅街の台所のいくつかでは、そろそろ朝餉の支度の明かりがつき始める所もあったろう。

穏やかな、冬の夜明け前の大都市圏の風景を見ていた人は、誰も、それが襲って来てからわずか十秒後に、その風景が、この世のものとも思われない、無惨で、めちゃくちゃなものに変わってしまう、などということは、想像もしなかったろう。 --確かに鳥や小動物たちは、何分か前、あるいは何時間前、もしくは数日前に、その異変の「予兆」を感じて、異常な行動を起こしていたかも知れない。また、それが起こる何分か前、色も形状もさまざまな「異常光現象」を、戸外にいて見た人もあったらしい。だが、その直前では、誰も、おや? とは思っても、その現象を、次に起こる大異変の前兆とは思わなかったろう。

そして、それは起こった。

大地の下から、巨大な水圧ハンマーをたたきつけるような、ものすごい上下動と、それにほとんど間を置かずに襲って来た、大地を激しくこねくりまわすような、東西、南北の水平動と……そして、たった十秒間のはげしい震動のピークが収まった時、関西、いや日本屈指の「近代的都市ベルト」の光景はまったく変わってしまったのだ。

午前五時四十六分五十二秒の光景と、午前五時四十七分二秒の光景は、まるで「別世界」だった。

つい先刻まで、拡幅された国道43号の上を美しいカーブを描いて延びていた阪神高速道路3号の高架は、東灘区深江本町で約六百五十メートルにわたって橋脚が根もとから折れ、ほとんど直角に折れた折れ口から白いコンクリートとはじけた鉄筋がむき出しになった。高架そのものは、北側の国道43号上り線の上に倒れ込み、下を走っていた車を何台もつぶし下腹を空にさらして屏風のようにそびえたった。

阪神高速3号は、このほかに西宮市内の三カ所で、橋梁が落下した。そのうちの一カ所では、落ちた橋の先の空間に前輪を浮かせ、辛うじて後輪のブレーキで橋上に奇跡的にとどまった、あのスキーバスの、ほとんどシュールレアリスティックな状態も見られた。 --高架道路の落下は、そのほかに阪神高速5号、いわゆる「湾岸道路」でも西宮港大橋が、国道43号は岩屋の高架橋が落下した。また、国道171号も、西宮市の門戸厄神、西宮北口間で、阪急今津線をまたぐ跨線橋がべったりと線路の上におちこんだ。

橋は、ほかにもいたる所で落下したり、通行不能になった。JR西日本の山陽新幹線は、新大阪から六甲トンネル東口の間で七カ所、神戸トンネル西口から西明石の間で一カ所、計八カ所の鉄道橋が落下した。在来線も、明石、鷹取、新長田、兵庫-三宮間、六甲道、芦屋、甲子園口の各駅付近で、高架橋落下、沈降が起こった。

阪急神戸線は、西宮北口以西、三宮間が、ほとんど壊滅状態だった。中でもひどかったのが、西宮北口-夙川間二・七キロの高架で、九五年五月下旬現在も、まだ復旧していない。今津線では国道171号と山陽新幹線の跨線橋落下という二つの「もらい事故」があった。阪急は、このほか百貨店を含む三宮駅ビルの大ダメージと、伊丹駅舎の二階プラットホーム落下という建物損壊が目についた。

阪神電鉄は、一番海岸寄りを走っているので、被害も大きかった。西灘-御影間のたった三キロの間で、八カ所の陸橋が落下し、新在家の高架二キロも、全般的な損傷をうけた。新在家-大石間を運転中の普通列車は、高架上で脱線し、傾いた。乗客二十八人は負傷はしたが、奇跡的に死者はなかった。 --この電鉄全社で、一番視覚的ショックを与えたのは、石屋川車庫の二階屋上に止められていた、八列車、五十八両の電車が、二階ごと一階下へ落っこちた光景だったろう。十秒前まで整然と並んでいた列車は、次の瞬間、ぐじゃぐじゃのうどんの筋のようになった。

JR西日本被害総額千二百億円、阪急七百十九億円、阪神七百九十億円 --近畿地建管掌下の被害総額一兆一千六百億円……いやそれだけではない。三万八千人の負傷者、三十万近い被災者と、ビルの倒壊、転倒無数、焼失を含む家屋全半壊十六万戸、淡路島北端では明石架橋の大橋脚が西に一・四メートルずれた。……その他大小の工場、会社、事業所、ライフラインの破壊損傷をふくめて、淡路島北部から神戸市、阪神間の「風光明媚」で「モダン」な都市ベルトは約二千万トンの瓦礫[がれき]の山となり、推定十兆円の資産が消えうせた。

それがたった「十秒間」の間に起こった「変化」なのだ。いや、当時五千五百人を超えていた死者のうちの、実に九割近くが、地震が始まってから、わずか五秒の間に、ほとんどが倒壊家屋の下になって亡くなったのである。

もっとも、こういった被害の全スケールが中間的に積算されてきたのは、地震発生後、二カ月近くたってからである。最初の激しい上下動とあわせて、「主震」と呼ばれる震動が続いたのが「十秒間」だったということを、私が知ったのも、二週間ほどたってからだった。 --そして、それを知ってから、私は改めて戦慄を感じた。

震災後二週間余たって、私はようやく取材の名目で被災地を踏むことができた。 --四歳の時から大学卒業後も十年近く住んでいた阪神間、そして旧制中学五年間に、もっとも濃密な関係を持った神戸の市街の、無惨に傾き、崩れ折れ、あるいはひっくりかえり、傾き、中途階が下の階をつぶして落っこちているビルを見、一面の焼け野原と化した長田区の人家密集地帯や、一つまみの木っ端の山と化した家屋群、傾き落ちた鉄道軌条や、すさまじい折れ口を陽光にさらしている高速高架の橋脚群を見ると、その十秒間に、どんなすさまじい破壊のエネルギーが、この街に、施設に襲いかかったのだろうと、またしても唇が寒くなるような思いを味わうのだった。

少し意外だったのは、阪神高速の高架が倒れかかった国道43号北側の市民を除いて、地震の時の「大音響」を、強い印象にとどめている人は多くなかったらしい、ということである。 --寝こみを、下からつき上げる上下動、それから地鳴り、家鳴りとともに主震に振り回され、ばたばた倒れかかってくる家具、本棚、食器入れをよけ --部屋の傾きと、あちこちめきめきと柱や壁、天井の壊れる音やガラスの割れる音を聞き、あるいは寝ている二階が、下の一階をつぶして落ちるどすんという音を聞き、……魂を飛ばしている十秒間、さらに震動のおさまったあとも、どこかでものの崩れる音を聞き --そして震動のあとまったく静かな一瞬がきた。

電気、ガスは主震の襲ってきた瞬間、もとで自動的にカットされた。月は出ていたが、夜明け前の暗闇の中で、外を見ても、全体として、いや一町内でも、どんな「変化」が起こったか、すぐには把握、理解できなかったろう。

長田区を中心に、あちこちで火の手が上がり出したが、まだそれほど大きくはなっていなかった。

大破壊のあと、かえって来た静寂の中で、しかし社会システムの中枢や要所要所で、一斉にけたたましい音が鳴り始めた。

警察、消防、海洋気象台、電力、ガスの中央指令所その他の、ありとあらゆる「警報」・緊急電話」のベルが、一ぺんに金切り声をたて始めたのだ。

【95・5・20】

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