能登半島地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。

 このたびの能登半島地震で亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を捧げますとともに、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。
 そして、一日も早く、平穏な生活に戻られることをお祈りします。

 1995年の「阪神淡路大震災」、そして最晩年の2011年の「東日本大震災」は小松左京に衝撃を与えました。
 美しく、自然恵まれた小さな島国の日本。しかし、そこには、逃れることの出来ない、災害の危険が存在しています。

 代表作『日本沈没』は、緻密な取材を重ね、その脅威に対し自らの創造力を駆使し描いた警鐘の物語でした。 しかし、1995年の「阪神淡路大震災」で、その脅威が現実となった瞬間、小松左京は絶望の淵に追いやられました。 もし、小松左京が、能登半島を襲った地震の惨状を知ったなら、過去の様々な災害と同様に深く悲しみ、被災された方々に心から同情したと思います。

 地元関西で起きた「阪神淡路大震災」では、衝撃を受けながらも自らの足で災害現場を巡り、関係者や識者にインタビューを行う形で週1回の新聞連載に挑戦し、この困難にどう立ち向かうべきかの様々な提言を行いました。
 けれど、還暦を過ぎてからの一年余りに渡る過酷な連載は心身共に蝕み、やがては鬱状態を引き起こすほどになりました。

 小松左京が必死の想いで書きあげたリポートは、「大震災`95」と名付けられました。
「阪神淡路大震災」の被災者の方に向けたものであると同時に、その先、新たな災害にあわれる方たちに向けて書かれたものでもありました。 災害は、それぞれ、発生した時期やその様態によって異なるものであり、30年前の「阪神淡路大震災」の教訓が全ての災害にそのまま当てはまるわけでありません。 しかし、多くの共通点もあり、小松左京の提言の中には今もなお、耳を傾けるべき事柄が含まれていると思います。

 今、苦しまれている方々、また救援に向かっている方々に少しでも役立つことを祈り、当時のリポートの一部を掲載させていただきます。


  小松左京「大震災`95」より震災における“水の重要性”、そして”海からの救援”に関するお話です。

目次

 「水」の問題

 地震直後の上水道の「断水」軒数は一番ひどく、百三十数万軒にのぼった。しかし、昭和三十二年に改正された戦後上水道の供給規定はかなり複雑で、その復旧過程の全容は、実のところ、まだ完全につかめていない。上水道の大もとの監督、許認可、検査、改良勧告権は厚生省にあり、そこから大体、地方自治体、公共団体に施設、管理、供給、料金徴収がゆだねられているが、私企業による施設、供給も認められている。「断水」といっても、水源からのパイプ欠損による圧力低下から、中間の埋設管破裂、家屋、ビル内の配管破壊と複雑であり、ガスのようにブロックごとに大もとでいったん止めて、それから末端、中間バルブを閉めて一系路ずつ破損を調べ、修理をしていく、というやり方よりも、もっとさまざまに入り組んだ修理を行わなければならない。
 そのうえ「工業用水」というのがあって、これは通産省の管轄であり、下水道は建設省の管轄である。私たちの都市生活を流れる「生命・くらしの水」の流れは、それこそ大動脈から中、小動脈、毛細血管、静脈、濾過[ろか]器官を通って排泄器官まで、文字通りの「ライフライン」を形づくっている。おまけに単に水圧で送るだけでなく、管路の至る所に挟み込まれているポンプ類が、大、中、小の「心臓」の役目をしており、ここには「停電」が、致命的なダメージをもたらす。さらに消防用の「消火栓」の破壊、圧力低下は消防作業にも大きな支障をもたらした --というわけで「ウオーターライン」は単にライフラインというだけでなく、そのダメージの社会的影響は意外に多角的で広範に及んでいた。
 しかし最初期の「一次被害」からの立ち直りという点で見る限り、水道はガスよりもスムーズだった。被災直後の断水百三十万軒は、十七日から十八日へかけて、百万軒に減った。 --実は、これは「電気の回復」と関係しているらしい。電力供給は、被災瞬間に、安全のため自動的に二百六十七万軒がストップしたが、その日のうちに百万軒に減り、「復旧」はこのラインから始まる。水道も、少し遅れて「断水百万軒」レベルから、本格的な復旧に入ったらしい。「らしい」というのは、電力、ガスのように、供給源で「一元的に」状況が把握しにくいからである。
 あとの復旧は、ガスよりはましだが、被災後、五日目、一週間ぐらいから悪戦苦闘が始まる。百万軒から六十五万軒まで回復して以後、これが二十万軒の水準まで持ち込んだのは、被災後二十四日たった二月十日ごろである。そこから、応急にほとんどゼロにまで回復するのは、さらに四十数日たった、三月二十五日前後である。つまり地震発生後、二カ月以上、六十七、八日かかっている。この時点で、ガスはまだ、十万軒のレベルで悪戦苦闘を重ね、おおむね一〇〇%に回復したのは、さらに二週間以上たった、四月十日前後であることは、先に述べた。
 ただ「水」の場合は、電気、ガスに比べて、ちょっと違った状況があった。 --電気、ガスは、言うまでもなく、ほとんど「末端備蓄」がきかない。供給元で、送るか送らないか、オール・オア・ナッシングの性質を持っている。
 しかし、「水」は地震直後、完全倒壊をまぬかれたビル、マンションの屋上に「給水タンク」があり、これが無事だった所は、その建物の中ではしばらく水が出た。私の聞いた範囲では、一日から一日半、つまりタンクがからっぽにならないうちは水が使えた、という。電気が来て、揚水ポンプが動き出すと、もうしばらく使えた、という話もある。それほど数は多くないが、例の六甲の某組組長宅のように、井戸を持っている所もあった。工業用水の井戸もあったらしいが、これは私自身、まだよく状況がつかめていない。
 飲み水に関しては、全壊、半壊以外の家では、「冷蔵庫」というものがある程度の役割を果たした。氷の形でも蓄えられていたし、何よりもジュース、缶コーヒー、牛乳、ウーロン茶といった飲料類が入っていた。思いもかけなかったことだが、昨今の「名水ブーム」で、何とかの「おいしい水」のたぐいが、ペットボトルや、合成樹脂製タンクに入って、かなりストックされていたようだが、総量でどの程度になるか、とても把握できない。コンビニやスーパーなどにも、このたぐいの「パックド・ドリンク」は相当あったろう。
 断水地域へ公共の給水車が破壊された道路に苦労しながら入っていく前に、周辺から合成樹脂製タンクやペットボトルに入った水が、見舞い、救援のバイクや自転車で次第に届けられ出した。この緊急時における「運搬給水」の効果については、もう少し細かく研究してみる必要があるかもしれない。
 問題は、食器洗いや洗顔、洗濯、入浴、そして水洗トイレなど、「非飲料用水」や「下水まわり」の方である。「トイレ地獄」は、早い所では十七日の午後から始まって、被災地全域で大きな問題になった。何度も話が持ち上がった「中水道システム」や、水使用量の少なく、効率のいいトイレ ――たとえばJR新幹線の「ひかり三〇〇」型のトイレや、長距離旅客機のトイレを考えてほしい ――を積んだ「トイレット・トレーラー」を考案してもいいのではないだろうか? いずれにしても、「生活用水系の災害対応」については、今度の大震災を機に、きめ細かく検討し直してみる必要がありそうである。


                                         【95・6・17】

小松左京「大震災`95」より

欠けていた「海」の視点

 一九九五年一月十七日の震災当日からほぼ六カ月の間に、中部方面隊を中核とする全国の陸上自衛隊の災害出動人員数は、延べ百六十四万人にのぼった。しかし、こういった大規模震災に対する救難救助については、中部方面隊はあまり出動要請経験がなく、 ――第一、この地域では、自衛隊設立以来、「大震災」というものがなかったのである ――それだけに圧倒的な「震災対策用装備不足」に悩まされた。倒壊家屋、ビルの下からの人命救助に必要な、チェーンソーやジャッキ、カッターさえ数えるほどしかなく、バールやつるはし、シャベルなどを使って、人海戦術で対処するしかなかったという。
 それでも規律正しい集団の、屈強な若者たちのきびきびとした動きと、ある程度の危険も恐れぬ挺身ぶりは、私も何度か見かけたが、被災地住民に「たのもしさ」を感じさせるものがあっただろう。中には汚物混じりの生ごみを、手で集めたケースもあったという。 ――隊所属のダンプ、トラック四百台が昼夜フル回転し塵芥(じんかい)、瓦礫五千トンが被災地から出された。
 海自、空自ももちろん緊急災害出動し、三隊をあわせると、その動員数は延べ二百五十万人におよんだという。文字通りの「大作戦」である。
 しかし、陸自中部方面隊への、神戸、県からの出動要請は、十七日当日午前十時になされ、ただちに行動に移れたが、海自、空自への出動要請は遅れた。はっきりいって兵庫県は ――ひょっとしたら中央も ――大震災に際しての海自、空自の「使い方」をよく知らなかったのではないかと思われる(東京都の場合は、八三年の三宅島噴火をはじめ、海自の救難活動を有効に使ったケースが少なくない)。
 震災当日からまる四日の一月二十一日土曜日の午前八時、この海域を管轄する海上自衛隊呉地方総監部から川村成之防衛部長の談話の形で、関西のマスコミ各社に、こんな熱い「叫び」のようなファクスが届いた。 ――いわく、
 「海上自衛隊はさまざまな支援能力があるが、対策本部からの要請がないので実際行動に移れていない。こちらからもさまざまな提案を対策本部にしているが、マスコミからもアピールしてもらえれば、より有意義な活動が出来る」
 「要請があれば出来る活動。
 危険地域から海上救出作戦の実施(そのための待機) ――六甲アイランドの住民は液化石油ガスタンクの爆発の危険を感じているが、今の状態では非常時に救出できない。
 ヘリコプター護衛艦とヘリコプターによるスピード輸送。
 物資以外の人などの海上輸送。
 物資以外にも一般の人の輸送も可。
 六甲アイランドのような、埠頭に被害がある場合にも海上自衛隊なら問題ない。海上ルートが確保出来れば、一般車両が減り、地上の緊急輸送網が円滑に動く。海上自衛隊艦船の施設提供。
 ふろ、トイレなどの利用。
 一部宿泊。
 治療(船医による)。
 しかし現在は、要請がないので、これらの行動が起こせない状態。対策本部からの正式要求が出るようにアピール願いたい」
 このペーパーを私が目にしたのは、ずっと後のことである。 ――しかし、阪神間育ちで神戸の旧制中学で五年間をすごした私は、「神戸」と聞くとすぐ「港・海」という連想が働き、一月二十日付の朝日新聞に、「緊急避難住宅に客船を借りてはどうか……」という提案記事を書いていた。
 この震災が、内陸の盆地などで起こったなら、そうはいくまいが、何しろ神戸から阪神間は、すぐ目の前に大阪湾がある。 --海上を直線で結べば、わずか三十キロそこそこの所に、ほとんど無傷の大阪湾があり、六甲、芦屋のフェリー埠頭に、もしまだ、フェリーが係留したままなら、有力な「居住空間」にも、また運搬にも使えるではないか、と思ったのである。内航だけでなく、日本は豪華なオーシャン・クリッパーを何隻も持った船会社がいくつもあり、それには快適なエアコン付きの船室と、香港や東南アジアまで無補給で行けるだけの水や食料、油を積めるはずだ。とりあえず、緊急避難用にその何隻かを神戸沖に回航し、高齢者や子供、病人に、「あたたかい生活」を提供できるのではないか? --病室もあれば、船医もいるし、長距離ファミリー航海のための子供の遊戯室もある。内海、沿海用で最低数百人、豪華客船なら千人から二千人の収容能力があるし、大阪、和歌山、徳島方面からの海上補給は、その気になれば簡単だろう。
 私の記事を読んでくれたのかどうかは知らないが、日本船主協会は、この事態に敏感に反応し、早い時期、たしか一月中に客船を何隻か神戸港に回航した。近く廃船になる客船を係留して、そのまま「洋上住宅」にする案も検討されたらしい。
 だが、問題はこれからだった。港湾都市、神戸沿海都市阪神間で、必ずしも「海」と「陸」とのすり合わせが、しっくりいかなかった。 ――かなりたってから、行政末端と「海からの支援」のパイプがつながったが、せっかく回航された客船も、最初はアクセスの悪さもあってか市民の避難がなくて、がらがらの状況だったらしい。そこで、スイスやフランスからの捜査犬を連れて来た救援隊の宿舎に使われていたようだ。後には、主に年配の人たちの利用があったというが、はたから見ても、何かよそよそしい関係だった。
 海自はとりあえず三千トンの飲料水を積んだ水船を回航したが、これも神戸市側とのつなぎがうまくいかず、一日目はわずか一・五トン、二日目でやっと百五十トンの給水を行っただけという。
 船会社も海自も、こういう時に市民に、「助けに来ています」と呼びかける、強力な広報チャンネルを持っていなかったこともあるだろうし、行政現場も、当面目前の対応に忙殺されて、気が回らなかったこともあったろうが、それにしても行政、市民両サイドで、避難、支援のラインとして「海」というものに対する感覚がすっぽり抜け落ちているように感じられるのが、私としてはちょっと異様に思えた。 ――むしろ「山」や「内陸」に対する方向感覚はあったようだが……。
【95・11・18】

小松左京「大震災`95」より
直筆原稿 小松左京「大震災`95」 欠けていた「海」の視点
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