(2015年1月配信・再掲載)
小松左京は、宇宙や地球を愛し、その想像の力で、時空の果てまでも操ることに喜びを感じていました。しかし、空想の万能力であらゆる世界を行き来しても、この小さな島国の日本とそこに住む人々への愛着を忘れることはありませんでした。
それはまるで『日本沈没』の田所博士のようでした。
1995年の阪神淡路大震災は、自分の愛する国で愛する人々が見舞われた大変な災難であり、自分が生まれ育った阪神間で起きた災害に大きな衝撃を受けました。
そんな当時の様子を以下のような文章で残しています。
吐き気がして来たので、まだ貧血気味のふらつく体を壁にささえながら、洗面所へたった。洗面所の前でうつむいたが、何も吐けず、わずかな苦い唾をおとした。冷たい水で顔を洗うと、ひょっとすると、自分はさっき涙ぐんでいたのかも知れない、と気がついた。そう思うと、今度は吐き気ではなく、本当に涙がこみあげて来た。――ぶざまに下腹を見せてひっくりかえった高速道路や、骸骨のように宙にういたレールをさらして落下した山陽新幹線の高架や、ぐじゃぐじゃにくずれたり、挫屈したり、倒壊したビル住宅とともに、私の中でくずれ去ったものがあった。それは、「世界にほこる」といわれた日本の建業技術、耐震工法、「世界一きびしい」といわれた安全基準に対する「信頼感」であった。そして、それらの技術水準に背景をあたえた、これも「世界的水準」にあるはずの「地震科学」の基礎知識に対する信頼も……。
『阪神大震災の日 わが覚書』(中央公論)1995年3月号・4月号掲載
小松左京は、震災から2カ月あまりたった1995年4月1日から、毎日新聞に月1回のペースで『大震災’95』の連載を始めました。
淡路島をはじめとして、各地の被災現場をたずね、ガス・電気・水道といったインフラ、自衛隊、消防、マスコミといった様々な方面や、地震学者、さらには精神科医の方々を取材し、当時、戦後最大の災害であった阪神淡路大震災の生の記録をとどめようとしました。
『大震災’95』はある意味、未完の作品かもしれません。
あのリポートを土台に、災害に苦しむ人々の救いになるような、そして、これから新たな災害に見舞われる人たちに警鐘を与えるような物語を創造することが本来の目的だったのでは、と思っています。
しかし、還暦をすぎた老いた身体に鞭打っての震災取材は、自身の思い入れの強さもあり、心身ともに大きな負担となりました。
創作意欲も急激に衰え、この取材を基にした新たな物語が世に出ることはありませんでした。
小松左京は、東日本大震災の発生した2011年の7月に亡くなりました。
亡くなる直前、最後のインタビューとなった「毎日小学生新聞」の記事の中で、子供たちに向けて「いかに危うい国土で暮らしているか、肝に命じるべきだ」とメッセージを出しました。
そして、この国と人々を愛し、常に心配しつづけたその想いは、『大震災’95』や『日本沈没』など様々な作品に残されました。
心配性な小松左京が創造した作品が、豊かではあるが災害の多いこの国の、防災や減災に役立つことを心から願っています。
自らの命を削る想いで書き続けた記録である『大震災`95』より、1月17日の模様を描写した回です。
つらい出来事を想い出される方もおられるかもしれませんが、これからの都市型災害における教訓が含まれていると考えます。