論壇「総合防災学」の提唱

 阪神淡路大震災の翌年にあたる1996年の防災の日に合わせ発表されたもので、自らが体験した阪神・淡路大震災、そして1年あまりの関連取材を経て小松左京が到達した防災に対しての提唱です。
 30年近く前の災害の記録ではなく、今、様々な危機に面している、日本列島とそこに住む人々に向けたメッセージとして捉えていただければ幸いです。

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論壇「総合防災学」の提唱

今年も、九月一日の「防災の日」をはさむ「防災週間」を迎えた。「防災の日」としては三十七回目、「防災週間」は十五回目となる。

 昨年の「防災の日」、私は在阪の民放ラジオ局が中部、関東のネット局と組んだ特別番組にゲストとして出ていた。--その年一月十七日、阪神間を襲った大震災の爪(つめ)あとがまだ生々しく残り、私たちの悪夢のような記憶も、まだ鮮明だった時点の三元特番である。--私といえば、四月から毎日新聞に連載を始めた「大震災’95」という、毎週一回、四百字詰め原稿用紙十枚の企画が、そろそろ胸突き八丁にさしかかり、その夏の暑さと、あまりにも広範な取材対象との悪戦苦闘で、かなりばてていたのを記憶している。

 「防災の日」が九月一日というのは、この日が関東大震災の記念日だったからだろう、とは思っていたが、それが一九六〇年(昭和三十五年)六月の閣議了解で「防災の日」とされたのは、その前年の九月、死者五千人以上、全半壊・破損・流失家屋八十三万戸を出した「伊勢湾台風」がきっかけになったのだ、ということを、中京圏のパーソナリティー(著名人)に教えられた。--直接のきっかけは、六〇年の五月、チリ沖地震が大津波となって三陸地方を襲い、全半壊流失家屋五千戸を数えたことらしいが、伊勢湾台風の惨事を踏まえて、「災害対策基本法」が、ようやく六一年に成立する。

 「防災の日」は、八二年五月、いったん廃止されて防災週間とともに改めて閣議了解され、この日をはさみ八月三十日から九月五日を「防災週間」とすることが、翌八三年の中央防災会議で決定された。東海大地震に対する警戒感が強まっていたことなどが背景にあった。--こういったことは、昨年九月の特番に出なければ、さほど注意を払わなかったかも知れない。とにかくその特番の過程で、一九二三年(大正十二年)の「関東大震災」と、五九年の「伊勢湾台風」と、昨年の「阪神大震災」がリンクしたのだった。

 あれからあっという間に一年がたち、再び「防災の日・週間」がめぐってきた。この間に、私自身は新聞連載に一区切りをつけ、六月には単行本にまとめることもできた。そして、「大震災’95」という、巨大複雑で、抜け道だらけの迷宮のような「事象」の中をくぐりぬけ、やや距離をおいてふりかえることのできる時点まできてみると、私たちの社会に存在する多様な知的システムは、「大震災」という事象の全体像を把握し、「防災」という観点から提言するのに有効に組織されていない、ということを痛感せざるを得ない。

 阪神大震災を一年余り取材し続けたうえで、漠然と感じられるようになったのは、「総合防災学」ともいうべき、超学際的な研究体制が必要なのではないか、ということである。日本列島を襲う自然災害--地震や津波だけでなく、台風、噴火、洪水といったものを含めて--の基本的性格を、自然科学系に輪郭を与えてもらうだけでなく、工学系、社会学系、経済学系、医学系、政治学系、法学系、さらにはマスコミ・ジャーナリズム系も参加して、「総合防災学会」が組織されるべきではないか。とても無理だと思われるかも知れないが、震災後すみやかに組織された神戸大学十学部連合の研究組織は一つのモデルになると思う。

 日本国内にとどまらず、近代世界全体を襲った「巨大自然災害例」の記録は、各地域に数多くあるであろう。今ならそういった記録をインターネットその他で、人類共有の「知的資源」としてプールすることは、さしてむずかしくないはずだ。大規模環境破壊に対する反省から、「地球にやさしく」というスローガンがはやっているが、地球そのものは必ずしもやさしくはない。

 「総合防災学会」を通じて、私たちが住む母惑星が、そういったダイナミックな性格を所与にもっている、ということが「世界市民」の常識となれば、しかもそれらの巨大自然の動きをのりこえて生物が三十五億年にわたって生き続けてきた地球史の現実を知れは、様々に進んだテクノロジーや人・モノの緊急流通を含む防災システムを通じて、人類全体の「生命社会の防衛組織」が「安全のための連帯」の了解のもとに実現していくのではあるまいか。

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