関東大震災から100年が経ちました

 東京、神奈川を中心に未曾有の被害を出した関東大震災が起きてから、今年でちょうど100年を迎えました。
 小松左京の母は19歳の時に日本橋で関東大震災に遭遇し、壮絶な火災のなかを何とか生き延びることができました。
 小松左京は母の体験談を繰り返し聞かされて育ち、この時の記憶が自身の災害に関する教訓、そして「日本沈没」執筆における源流の一つとなりました。


 小松左京も1995年に阪神淡路大震災に見舞われました。その直後に書かれた、阪神淡路大震災と関東大震災に関するエッセイをご紹介します。

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そのとき私は……

 二階の寝室で眠っていたところ、ドーン、ドーン、という激しい縦揺れに襲われて目を覚ましました。天井の照明が激しく揺れているので、頭の上に落ちてきたら危ない、と思い、起き上がろうとしたのですが、今度は横揺れで立ち上がれないんですよ。
 設置してある盗難警報が鳴り出すし、やっとのことで部屋を出ると本棚ふたつとビデオラック、飾り棚などが倒れ、割れたガラスが飛び散っていました。
 電気などライフラインは生きていたので、すぐにテレビをつけました。高速道路の高架が落ち、山陽新幹線が寸断され、建築にコンピューターの計算が導入されてからできたもののもろさに驚きました。その後、火事がすごい勢いで広がっていく映像を見ながら、すぐに火を消すことができない都市の機能があまりにも意外でした。
 最近、海外で大きな地震があるたびに、日本の高速道路は大丈夫、建物は強い、というのを聞かされ続けてきました。これまで何度も大きな地震に襲われたのに、日本はその経験をすでに技術が超えたと思い込んでいた。それはおごりだったんです。社会的利益優先で作り上げられた昭和四十年以降の都市システムを考え直さなければならないことが証明されました。
テレビを見ていて感じたことなのですが、火災現場を空から映して、「燃えています!」などとリポートしているのはとてもニュースショー的でした。それに事故の直後に一番必要であるはずの、被災地にアクセスする情報はきわめて少なかった。
 被災地への情報提供ということを考えると、東京のキー局に質問される形で関西の局が取材するのではなく、関西の局がキー局として機能するくらいの気概があってほしかった。
 今回の地震が起こってから何度も「もし、東京で起きていたらどのくらいの被害が出たと思うか」という質問を受けました。あくまでも仮定の上での質問なのですが、ひょっとすると、東京のほうが災害対策だけでなく住民の対応にも教育がなされていたかもしれないと思うんです。関西では「くるわけがない」とのんきに構えていた面があるのではないでしょうか。
 すでに亡くなった母と母方の祖父は日本橋で関東大震災に遭ったんですが、私は第二次大戦中にいろいろと聞かされました。「風呂の水はいつもいっぱいに張っておけ」とか、「どこに住んでも井戸の場所は確かめ、寝るとき、雨戸を閉めても外に逃げる方法は確保しておけ」とか、「旅館に泊まるときは非常口をまず確かめる」とかを口がすっぱくなるほど言われました。
 今後、いろいろな調査が進む過程で、どの建築物のどこにどんな手抜き工事があったなどという報道も相次ぐと思うのですが、目を向けるべきところは、災害に弱い社会そのものの構造をどう正すかということだと思い
ます。

 

1995年 阪神・淡路大震災の震源である淡路島の野島断層を視察
「日本沈没」第二関東大震災に関する直筆原稿
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