「地には平和を」は、小松左京のSF作家デビューのきっかけとなった作品であり、ここで提示されたテーマを生涯追い求め続けたという意味で大変重要な作品です。
「地には平和を」は、一九六〇年に早川書房「SFマガジン」の「第一回空想科学小説コンテスト(後のSFコンテスト)」の募集を見て、三日で書きあげたものです(応募時のタイトルは末尾の『を』がない「地には平和」でした)。
しかし、選外努力賞となったため「SFマガジン」に掲載されることはなく、一九六三年にSF同人誌「宇宙塵」六三号で発表されることになりました。
「空想科学小説コンテスト」は、もともと、『ゴジラ』(一九五四年)をはじめ、『地球防衛軍』(一九五七年)、『宇宙大戦争』(一九五九年)と、次々にSF特撮映画を手掛けていた東宝が、映画原作になる作品を集めようと、SFマガジンと共同主催したのもので、特技監督である円谷英二さんや、後に『日本沈没』(一九七三年)のプロデューサーとなる田中友幸さんも審査員となっていました。
円谷監督は、「SFマガジン」一九六一年八月号に掲載された空想科学コンテストの選評において
「SFはアイデアがよくても、その表現が作者の自己満足に終わっていてはなんにもならない。その意味では次点にはいった「地には平和」が、次元ものとしてのめりはりのある面白さを持っていた」
と評されています。
選外努力賞に終わった「地には平和を」。しかし、当時「SFマガジン」編集長で後にSF作家ともなる福島正実先生にその才能を認められ、コンテスト応募の際につけたペンネームでプロ作家としての活躍の場を得ることが出来ました。SF作家、小松左京の誕生です。
一九六三年、小松左京の初の短編集『地には平和を』が出版され、この短編集に収録された「地には平和を」と「お茶漬けの味」が第50回直木賞の候補作となりました。
『地には平和を』は、小松左京の戦争体験が深く影響をあたえています。
1945年8月、14才で終戦を迎えた小松左京にとって、もし戦争終結がもう少し伸びていれば、自分たちも少年兵として戦争に駆り出され命を落とすはずとの想いが強くありました。
本作で、本土決戦に巻き込まれ、ズタボロになりながら日本列島をさまよう少年兵は、小松左京のあり得たかもしれない、もう一つの姿です。
しかし、現実の世界で本土決戦は回避できても、すぐ隣で朝鮮戦争が勃発、さらに冷戦時代を迎え、全面核戦争により人類が滅亡する事態もあり得ました。
自分たちの歴史は本当に正しいのか?人類は一つの時間軸で、ただ一つの進化の道をたどるしかないのか?それを司る何かに抗うことはできないのか?
このテーマは、『果しなき流れの果に』『神への長い道』『結晶星団』『ゴルディアスの結び目』そして未完となった『虚無回廊』にまで引き継がれていきます。