「万国博を考える会」関連展示内容
万国博覧会-”人類の進歩と調和”に至るまで-
(2020年10月3日~11月29日・吹田市立博物館)

小松左京は、多角的に万国博のあり方を検討する知的ボランティア「万国博を考える会」に参加したことで、70年大阪万博という巨大プロジェクトの理念づくりの一端を担うまでになりました。

そして、この博覧会において、“人類が克服しなければならない問題”を提示するとともに、“あるべき未来のシミュレーション”を構築しようと試みました。

2025年の大阪・関西万博の準備が本格化するなか、小松左京の没後見つかった「万国博を考える会」の記録から、この会にかかわられた方々の未来社会への想いを感じていただければ幸いです。

小松左京夫妻と太陽の塔

・議事録(1964年)

「万国博を考える会」の最初期の資料。
「万国博を考える会」(この資料では「国際博を考える会」)の準備会合的な位置づけ。
後に主要メンバーとなる、梅棹忠夫先生や加藤秀俊先生は参加しておらず、朝日放送のPR誌「放送朝日」の編集長であった仁木鉄氏が、全体をコーディネートしています。

議事録(現代文化研究所)1

・議事録(1964年) 関連ルポルタージュ

本議事録は、以下に記されている「万国博を考える会」の初会合のための事前打ち合わせと推定されます。
*「ニッポン、70年代前夜」(「やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記」収録より)

  

一九六四年の七月はじめのある午後、私は、京都祇園花見小路の、とある旅館をたずねた。
間口の小ぢんまりした旅館の二階へ上がって行くと、窓をあけはなし、すだれをおろした二階に、すでに数人の人たちが待っていた。
――顔ぶれは、当時大阪市立大学の助教授だった梅棹忠夫氏、京都大学人文研の加藤秀俊氏、それに当時、大阪朝日放送の出版課長で「放送朝日」の編集長だったN氏、同じく当時、朝日放送の営業にいたY氏だった。
話がちょっととぎれると、Nさんが、「さて……」と、座を見まわした。
「それでは一つ、小松さんから今回の集まりの趣旨を御説明ねがえませんか?」
え? ――と、私はすこし狼狽[ろうばい]した。「そうですな」梅樟氏が、笑いながら、私の方をむいた。「どういうことでしょう?」
これは、N氏に一ぱい食ったな、と私は苦笑した。
その日の会合のオーガナイザーは、Nさんのはずだった。先生方への連絡も、会合場所の設営も、すべて「放送朝日」編集部がやってくれたから、当然会合の趣旨説明も司会も、N氏がやってくれるものと思っていた。それがいつの間にか、私が会合の招集者で、趣旨提案者のような恰好[かっこう]になっている だが、その日の会合の趣旨については、もうだいぶ前から、Nさん、それに私自身からも、いわゆる根まわしをしてあったので、一応「言い出しっぺ」の役目をひきうけることにして、汗をふきふき、「万国博を考える会」についての趣旨説明にとりかかった。

<中略>

思えば、これが「万国博」とひっかかりを持ちはじめる発端だった。--「万国博の研究をやりませんか?」といい出したのは、たしかに私だったかも知れない。それもいい出したのは、三十九年の四、五月のころだったと記憶する。「放送朝日」編集部で、N氏との雑談中、ひょいとその話がとび出し、その次はたしか、川喜田二郎氏に話し、京大人文研の、多田道太郎氏にも同じような話をした、そもそものきっかけは、その年の春、新聞の片隅にのった、「東京オリンピックの次は、大阪で国際博?」という見出しの、小さなベタ記事だったが、そんな記事に興味を持ったというのも、実はそれまでに私が、当時の「放送朝日」を中心とする、関西の、新しい「文化研究」の潮流にまきこまれていたからにほかならない。
今にして思えば、当時の「放送朝日」は実にユニークな雑誌であり、編集長のN氏は、異色の名プロデューサーだった。--私が万国博に首をつっこむきっかけを説明するには、この雑誌のことに、少しばかり触れざるを得ない。ちょっとバックナンバーにあたって見ただけで、この関西の一民間放送会社のささやかなPR誌から、実にいろいろなものがうまれている。

 

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・大阪国際博の組織論ー主としてB.C乃至コアの立場からの試案ー(1964年)

「万国博を考える会」の初期資料の一つ。
組織のあり方や博覧会開催までのロードマップを、多角的かつビジュアル的な手法を駆使し検討しています。

大阪国際博の組織論ー主としてB.C乃至コアの立場からの試案ー(1964年8月1日)1大阪国際博の組織論ー主としてB.C乃至コアの立場からの試案ー(1964年8月1日)2

・大阪国際博の組織論ー主としてB.C乃至コアの立場からの試案ー(1964年) 関連ルポルタージュ

:万博が実際に開かれるか未知数の段階で、大変興味を示していたことが下記のテキストからもうかがえます。

*「ニッポン、70年代前夜」(「やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記」収録より)

「国際関係ちゅうと、特にインテリやエリートは、じきに欧米のことを思いうかべよるねン」と梅棹氏はいった。「中国との関係や、ネパールやザンビアとの関係を、国際問題と思いよれへん」

とりわけ日本でおこなわれるとするならば、AA諸国の参加を重視しなければならないだろう、ということが、京都の発起人会の席上で、みんなの頭にすぐうかんだ。その前年アフリカのタンザニアに探検に行かれ、戦前のモンゴル調査、戦後のアフガニスタン、ヒマラヤ、東南アジアの調査と、世界の未開発地域を踏破された梅棹氏の頭の中には、近代化以前の社会にすむ、素朴な、しかし人間として堂々と生きている「大衆」のイメージがあったろうし、そのことは、私たちにもすぐつたわってきた。

川喜田二郎氏、多田道太郎氏、それに、今は故人となった鎌倉昇氏にも発起人のメンバーにくわわっていただいて、私たちの研究会は、七人というささやかなメンバーで一応発足した。「考える会」への参加をよびかけたい人たちのリストを作成し、N氏にオーガナイズを依頼して、私たちはとにかく万国博についての研究資料と、国内の進展状況に関する情報を集めにかかった。

--いったい、関西で万国博を、という話がどこから出ているのかしらべると、どうやら通産省の輸出振興関係、それにジェトロもからんでいるらしい、ということがわかった。話の持ち上ったのも、ここ一年以内の話で、何しろまだオリンピックの方さえ開かれていないし、その成功か失敗かもわからない状態なので、万国博が果して本当に開かれるかどうかもまだわからない。

しめた、これなら今からトレースすれば、ある程度間にあうかも知れない、と私は思った。--その時は、まだ、自分たちが万国博を「つくる」側にまきこまれることになろうとは夢にも思わなかった。よくいえば純粋な好奇心、悪くいえば、ヤジ馬根性で、日本の社会の中で、この壮大なイヴェントがつくられ、利用されて行く過程を、傍でじっくり眺められると思ったのである。

私たちは、最初三つの筋立てで、万国博というものを改めてみようと思った。

一つは、万国博などという奇妙なイヴェントが、文明史の中で、なぜうまれてきたか、それがこれまで、人類社会にどういう役割りを果してきたか、このイヴェントは、一八五一年の第一回ロンドン博以前の長い人類文明史の中の、どういう伝統とつながっているか、もしそれが、将来にかけてなお、文明に対して何かの役割りを果し得るとしたら、どんな役割りを果すだろうか、という、いわば本質論である。

もう一つは、戦後のブリュッセル博、シアトル博、そして、その年(一九六四)四月、ニューヨークで開催されて、評判の高いニューヨーク博、さらに一九六七年開催が決定し、基礎準備が進みはじめたとつたえられるモントリオール博の、それぞれできるだけ綿密な、ケース・スタディをやることである。

三番目は、日本という国の中で、こういった巨大な国際的行事がつくられて行く過程を一種の「社会現象」としてとらえ、地域開発、政財界、官界、学界、文化人、その他各界の反応と、対応のしかた、総合的な政治演出など、あらゆる側面から観察し、検討してみることである。

 

 

 

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・商工会議所、ニューヨーク世界博協力会関連(1965年)

:当時、副総理兼体育振興のスポーツ担当だった河野一郎大臣が提案した“万博複数会場案”に対し、大阪商工会議所に現状を問い合わせた際のレポート。

1月21日(商工会議所、ニューヨーク世界博協力会)

 

・商工会議所、ニューヨーク世界博協力会関連(1965年) 関連ルポルタージュ

河野一郎大臣の動きに関して、当時の生々しい状況を分析。

*「ニッポン、70年代前夜」(「やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記」収録より)

五月--パリBIE理事会で、七〇年の日本開催が本ぎまりになった。しかし、私たちは、まだ慎重にかまえていた。というよりは、広瀬や里井氏に、裏で知恵を貸すだけで、あとは逃げだすつもりでいた、といった方がいい。

それというのも、万国博はひょっとすると「政争の具」になるかも知れず、へたにコミットすると、厄介なことにまきこまれかねない、という危惧があったからである。--私たちが、マークしていたのは、佐藤栄作氏と勢力を二分する実力者、故河野一郎氏であった。このユニークな「怪物的政治家」の実行力は、それなりに評価していたが、何分そのやり方が強引すぎ、荒っぽすぎて、私たちの考えているような、いりくんだことを、うまく生かしてもらえそうになかった。その上、大野氏死亡、池田氏退陣のあと、いよいよ佐藤、河野宿敵の対決は、露骨なものになって行きそうだった。

第三次池田内閣(一九六三年十二月成立)の建設相であった河野氏は、首都圏整備委員長、近畿圏整備長官をかね、その当時から瀬戸内船上会談をやったり、西日本に徐々に比重をかけはじめているようだった。河野首都圏整備委員長と、佐藤オリンピック担当大臣が、「東京オリンピック」をめぐって呉越同舟の形をとっているのは奇妙だったが、三十八年七月の総裁選の時、河野氏はもちろん池田氏支持にまわり、次の内閣では国務相のポストにすわった。

七月総裁選をのりきり、大勢は任期いっぱい安泰と見えたのが、十一月に突然池田退陣、川島副総裁の大芝居と“吉田学校”校長の示唆により、ライバル佐藤氏に総理の椅子が「禅譲」されたことは、河野氏にとってあまり予期しなかった事態だったろう。しかし、与党内きっての「モーレツ男」は、配下の名だたる暴れん坊師団をひきいて、必ずや次の機会--それも佐藤体制があまりかたまらないうちに、巻きかえしをはかるだろう、という下馬評がもっぱらだった。大野氏が死に、川島フーシェ氏は佐藤内閣の産婆役、三木武夫氏は十一月総裁選に、河野、藤山を退けて佐藤支持にまわって通産相で入閣し、石井光次郎氏はなりをひそめ、党人派らしい党人派としては、河野氏ぐらいしかいなかった。それだけに大衆や報道関係に不思議な人気があった。

佐藤内閣が成立して間もないころ、例の「オリンピック記録映画事件」があった。--市川崑監督の映画に、河野氏が文句をつけ、編集しなおせ、と強力に命じ、それに対して佐藤氏が、「世の中には芸術のわからない人もいる」と間接的にあてこすったとかで、すでに両雄かるく鎧の袖をふれあった、という感じがあった。

その実力者河野氏が、「万国博」に関して、不気味なにらみをきかしはじめたことは、私たちにコミットをためらわせた。--大阪府知事の左藤義詮氏と大阪市長の中馬馨氏との間に了解が成立し、地もとでは府市の協力体制がひかれ、「東京オリンピックの次は大阪万国博」という線で早い時期から動いているのに、河野氏は、「会場は神戸の埋立地がいい」とか、「滋賀県琵琶湖畔が適当だろう」とか、いろんなゆさぶりをかけていた。--兵庫、滋賀、どちらにも、河野派のチャキチャキの「青年将校」がいた。

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 ・第2回「万国博を考える会」(1965年)

宇野宗佑議員(後の内閣総理大臣)を招いての会合議事録。
宇野議員を通じて河野一郎大臣との接触する旨が記されています。

第2回「万国博を考える会」1第2回「万国博を考える会」3

 

 

・第2回「万国博を考える会」(1965年) 関連ルポルタージュ

京都の大徳寺で開かれた会合に関する記述。
下記ルポルタージュで名前が伏せられていた代議士が宇野議員であることは、本資料により初めて明らかになりました。
この出来事以降、「万国博を考える会」は、公式の万博プロジェクトに深く係わるようになってゆきます。
*「ニッポン、70年代前夜」(1971年初出・「やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記」収録より)

そんな時、ある人の仲介で、私たちは河野派の代議士と会うことになった。会談は別にどうということはなかったが、そのあと、自民党関係で、私たちが河野派のブレーンになったという噂が立ったという話をきいたので、余計に神経質になった。--どんなことになるか知らないが、河野対佐藤の争いなどにまきこまれることになったりしたら、たまったものではない。
だが、そのうちまたしても意外なことが起った。--河野氏が突然死んだのである。その翌月には池田氏も病床のまま世を去った。同じ月、国際博準備委員会が発足しており、通産省繊維局長の新井真一氏が事務局長に就任した(のちの万国博協会初代事務総長)。別に河野氏が死んだからというわけではないが、私たちは広瀬の粘りづよい説得に根負けして、「公式のブレーン」ということではなく、準備事務局との「接触」をつづける、ということにした。
「婚約はしないが交際はする」
という梅棹氏の名言がとび出したのはこの時だった。

 

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・テーマ特別委員会(オーソライズグループ)候補者名簿

万国博のテーマを決める委員会のメンバーを検討する際のメモ。
非公式のブレインに過ぎない「万国博を考える会」が、テーマに関する最重要委員会の人選に大きく関与していたことが読み取れます。

テーマ特別委員会(オーソライズグループ)候補者名簿

・テーマ特別委員会(オーソライズグループ)候補者名簿 関連ルポルタージュ

非公式組織である「万国博を考える会」が、万博のテーマを決めるテーマ特別委員会(ルポルタージュでは作成委員会と表記)の人選をし、また「基本理念」の草案をしたことが、本資料と下記ルポルタージュにより浮き彫りに。
*「ニッポン、70年代前夜」(1971年初出・「やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記」収録より)

 

 

私たちが、新井氏に「集中講義」をやっている間、新井氏は一方で、博覧会協会の会長人選で走りまわっていた。左藤知事、里井氏ら、準備会のメンバーの間で、会長は関西財界から、ということで、松下幸之助氏をくどいたが、健康上の理由で失敗、大商会頭も体が悪くてだめ、住友銀行の堀田頭取(のち副会長)、関電社長の芦原氏いずれもだめ、ついに三木通産相が国際電話でカイロにいた石坂泰三氏をくどきおとした。四十年十一月のことである。

一方、広瀬は、モントリオールの先例を研究し、私たちの意見をきき、「テーマ作成委員会」の必要性を感じて、桑原武夫氏に、相談をかけた。桑原氏は、元東大総長の茅誠司氏を委員長候補にあげ、左藤知事も茅氏に加わってもらうことを強く希望していた。広瀬はテーマ委員会の公式メンバーになってもらう人を集めるのに東奔西走していた。

そのころになると、関係者の間で、「考える会」と新井、広瀬両氏との接触について、かなり知られるようになってきた。

「なんだ、あいつらは」と、誰かがいったとかいわなかったとかいう声もきこえてきた。

--レクチュアもすんだし、そろそろひきあげる潮時かな、と、私は思った。考えてみると無理もない。私たちは、準備会の「公式」のブレーンでも何でもない。見る立場によっては、新井事務局長に、妙な考えをふきこむ「君側の奸」と見えないこともないだろう。

学者の理屈こねまわしは厄介だ、とか、新井氏の理念道楽もこまったものだ、とか、中央から出向している役人の誰かがいったとか、いわないとか、そろそろ厄介なことになってきた。

 

<中略>

 

「開け行く無限の未来に眼をはせつつ……」という文案ではじまる基本理念を、私は大変な名文だと思っている。私自身はエレメントの配列についての討議と、最終段階のポリッシュに参加し、文章そのものの制作をやったわけではないのだが、物を書く立場として、この作業は大変参考になった。

「基本理念」の草案は、二十日の第三回テーマ委員会に提出され、ほとんど無修正で採択になった。--そしてこの文章をもとにして、「人類の進歩と調和」というテーマがうまれ、二十五日の理事会で正式採択された。ただちに英仏文の翻訳にかかり、十一月七日、パリの理事会に提出され、正式に登録された。まさに「すべりこみセーフ!」という感じだった。日本万国博は、いかにも日本らしく、「突貫作業」と「すべりこみ」ではじまったのである。

私自身は個人的に、「人類の進歩と調和」というテーマをやや歯切れが悪いように感じていた。私たちの考えていた流れから、漠然と、「人類の英知」あるいは「世界の知恵」といったものを期待していたように思う。--しかし、テーマと基本理念ができ上った時、協会の一部で、「これで“お経”ができたから、あとはこいつを神棚[かみだな]に上げて、実質的な仕事にかかるんだ」といっているときくと、さすがにちょっと不愉快になった。

 

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・テーマ展示物収集費用試算表(1968 年9月4日)

テーマ展示である太陽の塔の地下に展示するための、世界の民族資料を収集に関するメモ。
渡航に関する費用や担当者まで記した具体的プランになっています。
(この収集品が後の国立民族学博物館が母体に。後に、第三代館長となる石毛直道先生の名前も)。

テーマ展示物収集費用試算表(1968 年9月4日)

・テーマ展示物収集費用試算表(1968 年9月4日) 関連ルポルタージュ

世界各地の民俗資料収集は、削られた予算をやりくりしながら実施されたことが、下記ルポルタージュにより判る。
*「ニッポン、70年代前夜」(1971年初出・「やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記」収録より)

予算といえば、あの「エキスポの顔」といわれた高さ六十メートルの名物「太陽の塔」があやうく消えかかったことがある。テーマ展示の、総予算は前にもいったように建設費こみのあち見つもりで三十億は必要だと、岡本氏のスタッフははじき出していた。(この金額で理事会で説明する時、岡本氏はテーマ展示には「最低三十万円」必要だ、とやってしまった。石坂会長の「明治四十五年の万国博」とともに万国博の二大迷言とされている)

大蔵省筋はこの規模を内々に承認していたが、監督官庁の通産側は、あまり正面に大きなものを建てられると、ホストカントリーの日本政府館が目だたなくなる、という理由で強硬に反対した、テーマ展示の稔予算はせいぜい三、四億でいい、というのだ。モントリオールのテーマ予算百億と大変なひらきだ。そんな予算ではとてもテーマ展示はできないとプロデューサー側がいうと、もともとテーマなんてものは万風博にはいらないものだ、とまで極言した。

同席した国会万国博対策委員長橋本登美三郎氏がさすが色をなして、今のは個人の意見か通産の公式見解か、もし後者なら議事録にとどめて国会に報告する、と監督官庁側にひらきなおり、暴言者が訂正するといった一幕もあったそうである。この話をあとからきいた時、私はつくづくそういう交渉に出る立場にいなくてよかったと思った。当時の私が出ていたら、もっと身もフタもないことになっている。

予算の三倍にふくれ上った見つもりをむりやり削るのは大変な作業だった。業者サイドと一項目ずつ検討し、全体の仕様をかえ、やっと予算の倍ぐらいまで削った。だがそれをさらに半分にするのは、背筋の寒くなるような作業だった。場合によっては、石を一つころがしておいても、これが「根源の世界」だとひらきなおってみせると豪語していたものの、当初のイメージが、はなはだしく萎縮してしまうのはさけられなかった。それに私は平野氏と話しあって、第三スペース「心の世界」に展示する、海外民俗資料収集のための、予算六千万円は、最初からおさえて、絶対手をつけないことにしていた。一・五倍にまできりつめる時、展示構想を基本からやりかえなければならないところにまできた。

「理念」を最初徹底的につめておいたので、根本方針はぐらつかなかったし、デザイナーたちも、「ひでえなあ」といいながらすぐ方向転換できたが、私の心の中で、展示「効果」に対する自信が急にふっと失われそうな感じがして、寒気をおぼえた。「スペース」の広さに対して「密度」がこれほどさがってしまうと、効果に対するイメージがうかばなくなってしまう。結局は当初予定されたスペースのうちのある個所に、大幅にしわよせしてやっと切りぬけた。しわよせをくった個所は、最初から一貫して熱心にやった人たちの責任個所になってしまい、それぞれ一人前のデザイナーとして、自分たちの「構想」に愛着もプライドもあったろうに、よく最後までいや気がさして投げ出してしまわずにいてくれたと思う。

一九六七、八年は、ベトナム戦争反対の運動がもり上り、六八年後半からは、大学紛争の嵐がふきあれはじめた。六九年いっぱいつづいたそのさわぎの中で、梅棹氏と東大の泉精一氏の協力を得て、地下出展の海外民俗資料収集のために、四十人あまりの若い学究が世界六十余国にちらばっていった。どんなものがあつまるかわからず、あつまったところで展示を考えようというのだから、私にしてみれば、一種の「賭け」だった。しかし、このコレクションは、今でも、地下展示のうちでもっとも自慢できるものの一つになっている。

 

 

 

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・日本万国博覧会テーマ展示基本設計(小松左京、遺伝子落書き)

テーマ展示である太陽の塔の設計に関する資料に小松左京が描いた落書き。
太陽の塔内部を貫く生命の樹の根幹をなすDNAのイメージをつかもうとしていたと推察されます。

日本万国博覧会テーマ展示基本設計(落書き)

 

・日本万国博覧会テーマ展示基本設計(小松左京、遺伝子落書き) 関連ルポルタージュ

太陽の塔の地下展示を構築するにあたり、生命を中心としたテーマ及びサブテーマのイメージを、
スタッフといかに共有するか、小松左京が腐心したことを述べた文章。
本資料のDNDに関する落書きも、これに関連したものと推察される。
*「ニッポン、70年代前夜」(1971年初出・「やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記」収録より)

 

私が地下展示のスタッフたちとはじめて顔をあわせた時、もう展示についての、デザイン面でのいくつかのアイデアが出ていた。私はいちおうそれをきいた上でいった。

「すまないが、今まで出ているアイデアは一度全部忘れてください。あとできっと、もう一度復活してくるんだからしばらくの間デザインのことは考えないでほしい」

岡本氏は私に「一つ憎まれ役を買ってくれ」といった。何も進んで憎たらしくすることはなかったが、いくつかそろっていた模型もスケッチもわきにおき、最初の二週間ほどは、とにかくくる日もくる日も、テーマとサブテーマをめぐってのレクチュアと討論ばかりやっだ。展示業者からの出向員までひきずりこんで、むちゃだと思ったか、生化学から文明論から人類学から民俗学まで、とにかくサブテーマをつくり出す上の背景となった基礎知識を、みんなが大体のアウトラインをマスターしてしまうまでやった。

四つのサブテーマを、岡本氏の構想になる地下=過去、地上=現在、空中=未来という三次元構造のうち、地下の「過去=根源の世界」ヘ投影した展示の「基本的イメージ」は、その方向から出てくるはずだった。生命がなぜすばらしいか、自然がなぜしたわしいか、そして産業革命以前、つまり機械文明以前においても、人間の知恵は所与においていかにすばらしく多様であり、人間というものはいかにいじらしいものであるか--こういったことは、近代的デザインの「センス」からだけではよくつかめない。どうしても、ある程度、学問的な成果をふまえた具体的な「知識」がいる。

たとえば生命のシステムがいかに巧妙にできており、そのつくり出したものがいかに多様であるかという具体的な「知識」をもとにして、はじめて生命というものの「すばらしさ」に対する感動やイメージがうかんでくる。そのメカニズムに対する知識がなくては、卵からヒヨコがかえるのは、あたり前すぎる退屈な現象にすぎない。--顕微鏡映画や天体写真、学術言にはいっている図版を見てもらいながら、科学の開示する世界が、デザイナーたちの「デザインスピリット」ともいうべきものを刺激することを私は期待した。デザイナーたちは、実に敏感に反応をしめしてくれた。

展示産業界からの出向社員の一人などは、最後にはアマチュアながら生化学について大変な知識をもち、蛋白質の分子構造について、私をやりこめるほどになってしまった。くる日もくる日も、「まるで大学みたいだな」といわれながら、こんなことをつづけているうちに、ついにテザイナーたちは、その世界に、目分から興味を持ちはじめ、どんどん資料を集めはじめた。そうなれば、あとは彼らの世界だった。無限にイメージを触発する「知識」にもとづいて、彼らがそれを「展示」にヴィジュアライズして行けばいいのである。その「技術」はまさにデザイナーの領域である。もう一度テーマ、サブテーマをやると、今度はまことによくその「展開」が理解してもらえた。

--はっきりいって、そのあたりで私の仕事の大きな部分はすんだといってもいい。あとは「脱線」を監視すればいいし、メカニズムヘの展開は、デザイナーたちと平野氏との間できる。

 

スライド1

 

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・「万国博を考える会」関連年表

万博年表1

 

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やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記(新潮社)

 

「やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記」(新潮文庫)