小松左京作品と静岡②   社会現象にまでなったベストセラー『日本沈没』(1973年)より

日本沈没

 物語のプロローグ、田所博士、小野寺、そして深海潜水艇“わだつみ”を乗せた巡視船“ほくと”は、突如沈んだ島の調査のために、静岡の清水港(“カッパ・ノベルス”、および“決定版”では焼津港)から出港しました。

かつお漁船の出はらった清水港に着くと、海上保安庁の巡視船“ほくと”の後甲板には、すでにカンバスをかけた、深海潜水艇が積みこまれていた。
「やあ……」とM大海洋地質学の、幸長助教授が、小野寺の姿を見つけて手をふった。「すまなかった。休暇だったんだって?」
「もう出航ですか?」
小野寺は、ウインチドラムのやかましい音や、鎖のガラガラ鳴る音、呼子笛のひびきなど、あわただしい船上の様子に、ちょっとびっくりして、時計を見た。
「出航予定が早くなるはずだ」と幸長助教授は、波止場をながめながらいった。「“わだつみ”が行く、ということを新聞社にかぎつけられると、うるさいからね」
「気象観測船のほうへは、もう行っているでしょう」小野寺は、クスッと笑った。「A紙が、こういうことに、えらく熱心でね。--民間航空に飛行艇をチャーターしたらしいですよ」
「大げさだな」と幸長助教授は肩をすくめた。--海洋地質学をやっていて、しょっちゅう船に乗っているのに、ちっとも陽やけしない妙な体質だった。「そんなにまでして、さわぐことはないと思うがな。--現地へ行ったって、まだ何もわかりゃしないよ」
「なにしろ、ニュースのほうも、夏枯れですからね」と小野寺はいった。「連日の猛暑に、海山の人出に、水不足ばかりじゃ、読者もあきちまいますよ」
「それじゃ……」幸長助教授は、つよい陽ざしに、ちょっと眼をほそめながらつぶやいた。「第二新幹線の工事難航のことなんか、かぎつけたら大さわぎになるな」
「おや?」小野寺は、ちょっとおどろいて、白皙[はくせき]という感じの、助教授の顔を見た。「知ってるんですか?」
「情報がはいってるよ」と助教授は低くいった。「地質学教室の友人が、内密に調査を依頼されたらしい。--地盤の特殊性、ということで、工事現場の技術処理の範囲で、すめばいいけどね。あの問題を契機に、話がひろがると……」
「そうだな--」と小野寺はうなずいた。「例の、天城[あまぎ]噴火の徴候なんかひっかけられたら、とうぶん大さわぎですね」
その時、幸長助教授が、手をあげた。--波止場の、金バエがわんわん飛ぶコンクリートの上を、幅のひろい小肥[こぶと]りの人物が、汗をかきながら走ってきた。--手にさげた荷物を、網かけ用の柱にぶつけたり、コンクリートの上におちている魚をふんづけて、すべりそうになりながら、その人物は、やっと船の所まできた。
「早くしてください」と幸長助教授は笑いながらいった。「船が出ちまいますよ」
「おれをおいてか?」と、その肥った人物はどなった。「行くなら行ってみろ。泳いであとを追いかけてやる」
「まあまあ……」と、助教授は、踏み板をわたってくる人物の手から、荷物をうけとりながらいった。「小野寺君--田所先生」
「ああ、海底火山の……」と小野寺はうなずいた。「海底開発KKの小野寺です」
「いっとくが、おれの専門は、地球物理だ」と田所博士はいった。「あまり何にでも手を出すんで、妙なものが有名になったが……」
田所博士は、荷物を甲板にほうり出すと、すぐカンバスの所に行って、めくって下をのぞき、潜水艦そっくりの形をしたフロートの鋼板をバンバンと手でたたいた。
「これか--君ん所の山城専務に、何度も乗せろ乗せろといっとるのに、いっこう乗せてくれん」
「なにしろお座敷が多くて……」と小野寺は苦笑しながらいった。「もうじき、“わだつみ2号”が竣工します。そうしたら、もう少しローテーションがらくに組めますよ」
「“アルキメデス”と同じ設計だから、一万はもぐれるだろう。ええ?」田所博士は、ひげそりあとの青い顎をしゃくって、するどい眼で小野寺を見た。「こんなのを、海流や魚礁調査に使っているのはもったいない。--鶏を裂くに牛刀をもってするたぐいだ」
「妙な船で、潜水深度と潜水時間が相関してましてね」と、小野寺は船体をなでながらいった。「五百メートル以内だと、一日ぐらい、平気でもぐっていられるんです。--二千メートルを越えると、ぐっと潜水時間がおちます。バラスト機構などが、妙にあちこち具合がわるくなってね。調査が完全にすむまで、あまり深海にもぐるな、といわれているんです。--2号のほうは、そんなことはないと思いますが……」
「深海底には、何度ぐらいもぐった?」
「九千まで四回、一万を越えるのは二回。--べつに危険はありませんでしたが……」
「ビチャージ海淵(注・マリアナ海溝南部にある、世界最深の海淵、一九五七年ソ連観測船ビチャージ号により発見。深さ一万一〇三四メートル)の底までもぐっても大丈夫かな?」
教授はニヤリと笑った。
「2号なら……」と小野寺はいった。「あれには、コア・サンプラーがとりつけられるはずですし……」
「幸長君--」田所博士は、急に思いついたように、“わだつみ”のそばをはなれた。「ちょっと話があるんだ」
博士は、幸長助教授の肩を抱くようにして、船室のほうへはいって行き、小野寺は“わだつみ”のそばに、一人のこされた。--士官がまわってきて、乗船者の確認が終わると、“ほくと”は出航のサイレンを鳴らした。縄がはずされ、船尾にまっ白な泡がむくむくともりあがると、明るい灰青色にぬられた、見るからに軽快そうな九百五十トンの巡視船は、岸壁をはなれた。--数人の見送りが、手をふっているだけの、あっさりした出発だった。