一月一日

 

新しき西暦二〇一×年はあけぬ。

――かつて、二〇〇一年の元旦には、いよいよ二十一世紀、新紀元にはいりたりと、世界中がお祭りさわぎをしたものなれども、よく考えれば、元旦は大晦日のつづき、新年は旧年のつづき、二十一世紀は二十世紀のつづきにして、別に変るところなし。二十一世紀になればとて、世がでんぐりかえるわけにもあらず、人が頭にて歩き出すわけにもあらねば、また貧乏諸悪が突然地上より消えさるわけにもあらざるなり――桑海の変は二十世紀にも起こり、変らざるものは、二十一世紀にも変らず。昨今ようやく、二十一世紀熱がさめ、年あらたまるごとのバカさわぎもすたれつつあるは、まことにもって慶賀のいたりなり。

それにしても、人間は、よくよくカラさわぎの好きな動物と見ゆ。――かつて予の祖父は、御一新のさわぎ、日清日露の戦役の慶祝さわぎを、ことあるごとに語りたるものなれど、人類には、お祭りさわぎ好きの本能がひそむと見え、なにかといえば口実をもうけ、世をあげてドンチャンさわぎをたのしむものらし。その性たるや二十一世紀のフェスティバルにうつつをぬかす人も、はるけき旧石器時代に、首狩り祭りをたのしむ「ねあんでるたある人」とことならず、思えば、世は便利になりたるとはいえ、人間そのものは、ここ数十万年、さまで進歩せしとも思えず。――まことにもって歯がゆきことなり。

払暁、一人起きて若水を汲む。――息子夫婦、孫ども本年より、予の指示にしたがって古式の正月を行う約束なるも、約をたがえて起ききたらず。寝室はすべて電気錠なるゆえ、起こしもやらず。地下室におりて一度は電源を切りたるも、思いなおして、居間各室に通ずる「緊急ベル」を鳴らす。家族みな、あわててとび起き、計略まんまと功を奏したるも、ロボット消防車数台かけつけ、テレビ電話で警察に油をしぼられたるは、元日早々醜態なり。

水道のため、ありがたみうすき若水を汲みたるものの、さてこの水をどうしてよいかわからず。祖父両親存命中に、よくきいておけばよかったと悔ゆれども、今さらどうにもならず、なんとなくお茶をにごして、屋上に出でて、四方拝をおこなう。日ごろ、人を年寄りあつかいにする家族一統、今日ばかりは予の命ずる通りに、不承不承、また笑いをこらえつつも、型ばかりは神妙に、頭をさげるは、はなはだいい気味なり。――予も、もとより若年の砌[みぎり]は、かかる儀式を一笑に付したるものなれど、現在は、たとえ型ばかりとはいえ、つい近年まで生き、つたえられてきた日本の古い「正月」の感覚を、孫につたえおかんと決意す。

それに年に一度、正月ぐらいは、日ごろ邪魔ものあつかいされ、進歩にとりのこされた旧弊人として、世に疎外された老人が、古式を知り、古い心をつたえる「祭司」として、――つまり、その期間中にかぎり、社会の主役、指導者として、ふるまうのも、またよからずや。「年寄りの日」に、思い出したような憐憫まじりのお世辞やいたわりを示すのみにて、あとはほったらかしとは、はなはだもって老人を愚弄したやり方なり。――二十世紀において、すでに重要な社会問題化しつつあった老人問題は、二十一世紀にいたるもいまだ抜本的な解決を見るにいたらず。文明の歩みの遅々たること、かくのごとし。――思えば予も、二十世紀においていまだ壮者なりしころ、老人問題などにはハナもひっかけず、ジジイババアなど早くくたばっちまえばいいとのみ思いおりしが、今日は人の身、明日はわが身、二十一世紀においてそのむくいをうくる形になるとは、――思えば皮肉なことなり。

四方拝の後、ダイニング・ルームで屠蘇をいわう。――家族一人一人予の前にすすみ、盃をうくるは、古き家父長制のシンボルなりと、孫ども猛反対せしも、かまわず強行す。古稀をすぐれば、人間ちっとはいじわるになるが当然にて、それがまた老人の値うちなり。――家伝の塗り盃を紛失し、形ばかりのプラスチックの盃にて祝うは、はなはだもって味気なきことなれど、これもいたし方なし。屠蘇のミリンも、最近は入手難にて、わざわざ酒造会社に注文せしものとのこと。一般家庭で料理する風習の衰退せる結果ならん。

屠蘇ののち、雑煮をいわわんとするも、食事宅配会社は、いまだ「正月料理ユニット」を配達しきたらず。――キッチンの、配達用パイプの中はからっぽなり。テレビ電話にて係をよび出し、こっぴどくどなりつければ、相手はねぼけまなこをこすりつつ、「すみません。正月ユニットは、数がすくないので忘れてました」という。無礼千万なり。正月のおきまり料理をとる家庭も、最近はめっきりへったという話を思い出し、やや暗澹たる思いにとらわる。

やがて保温ボックスにいれられ、パイプよりとび出してきた料理は、家族みんなは「極少サイズ――御祝儀用」の、掌にのるほどのものにて、予のみが「特大」なり。御祝儀用は、黒豆一粒、ゴマメ一匹、カマボコ一枚、キントン一粒、カズノコ一きれ、といったみみっちさで、みなみな旧式のビタミン剤でものむがごとく、しぶい顔にてのみくだす。――予、昔日の新年をしのんで食せんとせしも、その味はなはだもって粗末なり。需要すくなき故にや、はたまた古き料理法が失われしためにや、これでは正月料理衰退も当然ならん――もっとも、記憶によれば、正月料理なるものは古来型にはまって、あまりうまいものにはあらず。正月に女子を厨房の労より免れさせんがための、保存食なれば、キメのこまかい食事宅配サービスの発達せる今日、すでにその意味は失われたるにひとしく、予もただ、年中行事に対する郷愁によりて食するにすぎず。

されどまたよし!――人は必ずしも、美味栄養のみを食するにあらず。口おごりたるのちも、ひなびた味、ふるさとの味をなつかしむ。しからば形ばかりのこの料理もまた、一種の精神的情緒的食物ならん。――とはいえ、化学調味料をしました乾燥モチに、乾燥ミツバのはいったインスタント雑煮はなんとも味気なし。半世紀前のインスタント食品の遺風、いまだここにのこるか、噫! まやかしの合成ものらしきカズノコ、かたくてかめず。やむを得ず、電気イレバをもちう。小型モーターつきにて、顎をもちいずとも自動的に咀嚼する入れ歯なれど、つかううち、口中たちまち毛だらけとなる。また孫のイタズラ坊主が、犬の散髪に用いしものならん。――前のイレバは、フーセンガムを二十個もつめこまれて、廃品となる。息子夫婦のしつけ、なまぬるし。

食後、賀状、年賀客をまちうけたるも、どちらもきたらず。息子と酒をのむも、最近の酒は、法令により分解酵素いりにて、のむうちは酔うも、盃をおけばたちまちさめて物足らず。酩酊気分をのぞむものは、別に「酔い薬」をのまねばならぬとは、バカバカしきいたりなり。

一人にて、初詣でに行く。――街行く人、みな一応晴れ着にて、やや正月気分なるも、ベルトウエイの両側に、門松をずらりとたてて、動く門松並木をこしらえたるはどういうつもりか。――まして緑めでたき松竹が、プラスチックの模造品なるはぶちこわしなり。

総合神社仏閣パークは、老年男女の姿、平日よりやや多く見ゆ。――日本全国の、有名神社仏閣の、パノラマ式分社を集めた神社デパートなり。便利なれども、ありがたみうすし。伊勢神宮館には、特別催しとして、立体色彩アイドホールにて、二見ヶ浦夫婦岩を投影しおりしが、どうやらビデオ録体らしく、いつまでたっても初日の出のくりかえしなのもインチキくさし。

帰路、獅子舞いロボットを見かく。――鼻の穴に十円入れてやれば、テープ録音の笛太鼓にあわせて、はでに古式のアクロバットを舞うも、小銭もちあわせなく、またロボットともなれば興もうすくて行きすぐ。

帰宅ののち、さすがにつかれて、横になってラジオをきく。――ラジオはほとんど個人間緊急通信用にのみつかわれ、立体テレビも、個人通信、学校の遠隔授業にのみつかわれて、ラジオの放送は、政府が老人盲人用に行うのみ。――正月用に、歌謡、古典音楽、鶯の初音などを流すは、心のとどいた老人むけサービスなり。謡曲「鶴亀」も、意味はほとんどわからねど、大鼓のさえた音に、のどかに古い、正月ムードを味わう。まことに恰好のムード・ミュージックなり。

――かくて元日は、なにごともなく、手もちぶさたに終る。孫どもに、今日一日足どめをくわしたので、一家所在なげに、立体テレビを見る。――正月番組は、半世紀来、かわらずくだらなし。

トイレにはいって、ファクシミリの正月版を見る。――トイレにファクシミリをおきたるは予の知恵にて、こればかりは老人の知恵が、一家をあげて歓迎されし特例なり。――正月版は、これまた十年一日のごとく量ばかり多くして、中身なし。政財学界の知名人の言葉も形式的なお座なりばかりで、それがかえって正月気分をかもすは、形式主義の妙というべきか。――月行きの旅客ロケット遭難し、地球にひきかえす。目下地球をめぐる軌道上にて、乗客救出中とのこと。最近、正月を月にてむかうることが流行なれども、月への遊山旅行は、まだまだ高価にして危険多し。

一年の計、元旦にあり。本日より、わざと古めかしき文体にて、日記をつけ始む。

――孫曰く、

「なんだかむずかしくって、古くさくって、わかンないや」

善哉。――老翁の記をのぞき見たる印象は、やがて古文に対して興味を湧かすきっかけになるやも知れず。老人の古風をまもるいわれも、孫が予の年配に達すれば、思いあたることもあらん。――されど古文法をきれいに忘れ、文体、われながらたよりなし。