<第1回「万国博を考える会総会」開催50周年

:1965年10月15日 AM10:00〜PM5:00(於 大阪科学技術センター)

 

 

「万国博を考える会」は、日本の文化人類学のパイオニアである梅棹忠夫氏や、メディア論や社会論などで多くの実績を残す加藤秀俊氏、作家デビュー間もない小松左京など、当時新進気鋭であった知識人達により1964年の夏に発足した、言わば知的ボランティア集団であり、国や大阪府、大阪市、博覧会事務局などの依頼ではなく、自発的に、万博の歴史、問題点、あるべき姿などを詳細に検討し、ついには、EXPO‘70大阪万博の実際の理念を構築し、日本史上最大の国家イベントを動かしました。

また、創立メンバーの一人であった、小松左京の代表作である「日本沈没」にも大きな影響を与えています。

国家プロジェクトとそれを有効に導くブレインのあり方を考える際の貴重な材料といえます。

万国博を考える会表紙
第1回「万国博を考える会総会議事録」表紙

 

 

<万国博を考える会>

1964年7月に結成された会。

創立メンバーには、梅棹忠夫氏、加藤秀俊氏、小松左京などがおり、その後、漫画家の手塚治虫氏、SF作家の星新一氏、芸術家の岡本太郎氏なども参加しました。

国や大阪府、大阪市、商工会議所、後に設立する万博協会からも全く独立した集団であり、大阪での万博開催が不透明な頃から、会の名にある通り、多角的に万博のあり方を検討し続けました。

最終的には、万博プロジェクト本体とも深く係わり、1965年11月パリで開かれる万国博国際理事会に提出しなければならないテーマと基本理念に関しては、「万国博を考える会」での研究の蓄積を基に、梅棹氏を中心とするメンバーが泊まり込みで草案をまとめました。

 

小松左京はこの時の様子を自著の中で次のように述べています。

『今は、とにかくスピードが要求されている時だった。そして、わずか二カ月たらずで、テーマと基本理念をこしらえるという「突貫作業」は私たちが一年半もの間、知る人に「お先っぱしり」と冷やかされながらつづけてきた研究の蓄積をフルに利用することによって、可能になったといえるだろう』

*『巨大プロジェクト動く―私の「万博・花博顛末記」』(廣済堂)より

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・第1回総会議事録(1965年10月15日 於 大阪科学技術センター)より

万国博を考える会参加者

:「70日本万国博は止めた方がよいという結論にたっした時、止めろという発言ができる立場を保ちたい」と表明。

:パネルディスカッションでの岡本太郎氏の発言も記載

「われわれが未来に向かってなにかつくりあげようとすれば、それは個人を越えたものじゃないかと直感する」

「懐古趣味的な日本ではなく、現実的な日本の、世界を越えた、高い次元のパティキュラリティというものを考えて欲しい」

「裏から見られることを嫌がったり、お体裁をつくろったり、日本にはこんなものがあるんだといばったりするのはばかばかしい」

「このひどい環境こそ、モニュメンタルなものをやるべきで、そのコントラストが珍無類だったらさらに面白いだろうと思う」

*岡本太郎氏はテーマ展示プロデューサー就任の2年前に、後に展開していく独自の万博観を語っています。

 

 

<日本沈没との関連>

小松左京の「日本沈没」では、日本列島の地下深くで進行している巨大地殻変動の兆候をいち早くキャッチした田所博士を中心とした有志が、政府が動くまでに、様々な調査、検討を独自に重ね、実際の日本人脱出計画のマスタープランを構築してゆきます。

厳選されたブレインが箱根の屋敷にこもり、徹夜の連続で日本沈没後の日本人のあり方を練り上げる様子は、「万国博を考える会」のメンバーが、パリでひらかれる万国博国際理事会に提出するため、大阪万博の基本理念の草案を泊りこみで作成しつづけた姿と重なります。

 

小松本人も著書「SF魂」(新潮新書)の中で、以下のように述べています。

あれだけの国家的イベントの建設作業に関わることができたのは、貴重な体験だったと思っている。

官僚組織や国家機構を内部から見た経験は、結果的には「日本沈没」執筆の際にも活かされている』

 

日本沈没表紙

 

「三つにわけなすったか?」老人は卓上の封筒を見ていった。「そうか--」

 「地域別ではなく、ケース別にわけてあります……」福原教授はちょっとのどに痰をからませながらいった。「一つは--日本民族の一部が、どこかに新しい国をつくる場合のために、もう一つは、各地に分散し、どこかの国に帰化してしまう場合のために、もう一つは……世界のどこにも容れられない人々のために……」

 「ユダヤ民族の場合は、あまり参考になりますまい……」と僧体の人物が、瞑目したままいった。「ユダヤの民二千年の、漂泊の体験が、この島国の民、二千年の、閉ざされた幸福な体験と、すぐにおきかえられるとも思えません。ディアスポラののち、何年たって、何を学びとるか……それまで、日本人は、まだ日本民族であり続けるかどうか……」

 「宇津木先生は?」と老人は聞いた。

 「隣りでやすんでおります……」と、福原教授がいった。「さっきまで起きておられたのですが……精も、根もつきはてて……」

 「その、三番目の封筒の中には、別にもう一つ封筒がはいっていて、それには、ちょっと極端な意見がはいっています……」と僧侶はいった。「実をいえば--三人とも、その意見におちつきかけたのです。しかし、それでは、この作業の趣旨にまるであわんので、特殊意見として別にしました」

 

 『日本沈没』第五章 沈み行く国 より