生賴範義先生がご逝去されました。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

小松左京は生賴範義先生を心から尊敬し、その素晴らしいビジュアル世界をこよなく愛していました。

作家は沢山の人に読んで貰いたいとの願いを込めて、様々な物語世界を構築します。

一冊の本の表紙は、そんな人々を物語の世界に誘うためのとても大切なゲートです。

作者、タイトルと同様、あるいはそれ以上に大切なのは、物語世界を一枚の絵に表現した表紙絵です。

どんなに素晴らしい物語世界があっても、それは手に触れ読んでもらえない限り、存在しないも同然です。

生賴範義先生は、常に小松左京の物語を深く読み込まれ、作者が驚くほどのビジュアル世界を構築され、その力強い吸引力で、沢山の読者を小松左京のもとに導いてくれました。

そんな読者と同様に、小松左京は純粋に生賴範義先生の絵を愛していました。

自らが創りだした物語世界の本質を映し出す鏡のように。

 

いったい、どれだけの小松左京作品が生賴範義先生の手によりビジュアル世界の生命を得たことでしょう。

小説の表紙だけではありません。

映画「日本沈没」では、1973年版の題字、2006年版のポスターアート。

1980年公開の製作費25億円をかけた角川映画「復活の日」では、アメリカクルーに物語を説明するために25枚のイメージボードまで描いていただき、このビジュアルは映画の世界観を決定づけることになりました。

 

小松左京が、生賴範義先生をどれほど敬愛していたかを語る文章を紹介させていただきます。

少々はしゃぎ気味のようですが、生賴範義先生に対する、掛け値なしの小松左京の想いです(生賴先生を語る際に、いかにウキウキしているかを感じられると思います)

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“ドカッ”と私の前にあらわれたプロSF画家

 今でこそ、若い熱狂的にファン層を顕在化し、そのニーズにこたえる形で、“SFアート”というものも、出版界の一部ではまずまずのとりあつかいをうけるようになったが、(といってすぐれた日本のSFアーチストが、その才能にふさわしい“報酬”をうけとるようになったとは、未だにいいがたいが)実をいうと、日本のSFアート・イラストレーションは、長い間SF同様、日かげの身だったといっていいだろう。

 今でさえ、SFは“ガキのもの”と無神経にローカル・テレビで放言する、それも若手の、視野狭窄型司会者がいるくらいだが、戦後の日本のSFの揺籃期には、何とかSFが、駄菓子屋的な安手で子供だましのものでなく、“おとな”の鑑賞にたえ得る内容せもりこめるものだ、と当時の出版界やジャーナリズムにみとめさせたかったため、心ある編集者ほど、イラストも、欧米の都会派雑誌にあるような、“しゃれたタッチ”のものを意識してつかい、弱年層の(実はひそかにおとなも)胸おどらせるような、“迫力のある”絵を、さけて来たような所がある。

 しかし、これはSF作家クラブをつくってからわかったのであるが、SF作家たちは、実はあの樺島勝一や小松崎茂、それにボーンステルなどの、写真と見まがう細密描写力をもった、“迫力ある”SF画も、手塚さんのマンガも、SF映画も、SFアニメも、みんな好きなのであった。好きなだけでなく、自分でも“余技”として描いて、けっこううまい人が、星新一さんは別格として、かなりいるのである。(余談でありますが、岡山にいる女流若手SF作家の山尾悠子さんも、実にうまいのです)ただ、当時の情勢で、世間に対しては、多少ともしかつめらしいおとなのふりをして見せなければならなかっただけであるが、そんな附け焼き刃がうまく行くわけはなく、SF作家は、本質的に“ガキっぽい”という評価を、外からうけてしまった。だから、SF界で、スペオペ(スペースオペラ)に狂い、ハネス・ボクやエド・エムシュに一人トチくるって、「SFは絵だねえ」という名言をはいていた狐高の英雄、野田昌宏宇宙大元帥の事を、みんなひそかに尊敬し、撞れ、支持はしても、「あのシト、英語がよく読めないから絵をたのしんでるんじゃないの」などという失礼なかげ口をきくやつは一人もいなかったのである。

 そういう所へ、生賴さんが、ドカッとあらわれた。ほんとうは、もう少し、しかるべきプロセスをへて登場したのだろうが、私の印象では、“ドカッ”という感じだった。最初に生頼さんの絵を見たのは、ごく初期のハヤカワ日本人作家書き下しSFシリーズの第一作に書いた『復活の日』が、後日、軽装版からハードカバーで再刊された時、そのカバーでだった。それを手にした時、私は興奮のあまり、すぐ早川書房に、当時はまだ、南山宏さんがSFの責任者だったと思うが、電話してきいた。「あの絵、描いた人、日本の人?うそだろう? 外国のSF画家じゃないの?」

 その時、南山宏こと森優さんがいたずら好きで、いや、あの人は実はノリス・オーライというスペイン生まれのイギリス人で、などといったら、こちらは手もなくはめられてしまう所だった。

 電話を切っても、いよいよ日本にも、迫力のある、プロのSF画家がでてきたぞ、と興奮さめやらず、本の腰帯をひきむしり、本のカバーをひろげ、すみからすみまで、もう一度なめるように見入ったものだった。あの時ほど、本の下にくっついている“腰帯”という紙ッ切れがのろわしくうとましく思った事はない。生賴さんにカバーを描いてもらうかぎり、「面白半分」誌の“腰巻文学大賞”などに色眼をつかわず、腰巻きなんざとっぱらって売るベきだと思う。第一生賴さんに失礼ですよ。その表紙カバーの場合も、正面の暗い感じの巨大なエピタフの下方、ちょうど腰巻きにかくれているあたりに、拙作の冒頭シーン、死の都になった大東京の、海からの遠望と、孤独な感じの原子力潜水艦が、小さく、精密に描きこまれているのである。

復活の日 1973年版表紙2

 これ以来、生賴さんの絵には、とりつかれてしまった。九州におられるとかで、お眼にかかった事はないが、こちらから編集長に指定して、度々ハードカバーや文庫の表紙を描いていただき、角川で出た最初のハードカバー短篇集『ゴルディアスの結び目』は、とうとう原画をおねだりして頂戴し、書斎に飾ってある。小松研の若いのが家に来て、時々、ギラついた眼で食い入るように見ているが、絶対にやらないヨ。あきらめるのだ。もっとも、中には、生賴さんにギャボッ! といわされた絵もあって、それは角川文庫の『ゴエモンのニッポン日記』のカバーなのだが、まさか生賴さんにあんなセンスがあるとは思わなかった。それまでゴエモンを描いてもらったイラストレーターの中で、一番おトロしいゴエモンの顔がマンガタッチで表に描かれていて、それはいいのだが、裏の方に、何とも小生がすっ裸で、そりゃ拙も風呂はいる時はハダカになりますがね、そのかわりわが家の風呂場にはでかい鏡はおいてない。スタコラ逃げてる姿がま横から描かれている。ま横から描いた所がニクたらしい所であって、これがまた本人以上に本人に似ているため、その後次第に本人が、その絵に似て行くのではないかという妄想にとりつかれるほどであり、そのイメージがこびりついたため、この五月末、イースター島のかえりにハワイで映画『エイリアン』を見て来た永井豪ちゃんや、中島梓のチャマオバ(っと失礼、チャマオネェ)、川又千秋夫妻などとおちあった時、自称格闘技評論家で今や中年肥満の兆候おおいがたい「スタジオぬえ」の筋肉男、“ヌンチャク・ジョー”の高千穂遥などが、「小松さん、泳ぎましょうよ。ジョギングしませふ」などコンタン見えすいた事をそそのかしても、とたんに冷や汗が出て来ておいそれとのるわけには行かず、ためにますます運動不足でオーライ・イメージに似てくるのです。ああ!

 

 冗談はさておいて、生賴さん、武部本一郎さん、それに「スタジオぬえ」の吸血鬼加藤直之クンなどは、日本のSF界はもちろん、SFで最近はけっこうアブク銭をかきあつめている何とか界も、大切にして行かねばならない才能である。日本は、戦前に樺島勝一をうんだのに、いわゆる“芸術”スノビッシュが、そういう才能の今日的意味を軽視しすぎる。十九世紀から二十世紀はじめへかけて、ヨーロッパで、印象派が、フォーヴが、エコール・ド・パリ、キュービスムが、美術界の“潮流”になった背景には、実は“写真”の大発展のため、画家たちに肖像画の仕事ががっくりへったという社会的事象があった。そのため、画家は、“絵画は写真ではない。芸術だ”という事を主張したいために、一種の“技法破壊”をやり、その潮流が開国まもない日本にうのみにされたのだが、しかし、ハンス・ホルバイン、アルブレヒト・デューラー以来の、ヨーロッパの細密描写の技術は、たとえばダリ、キリコ、マグリットなどにもうけつがれており、それがアメリカの健康なポピュリズムの中で培養されて、ついに、“写真と見まがう具象性をもちながら、写真をはるかにこえる描写力とイメージのひろがりをもつ”SFアートや、グラフィック・アートに発展して来たのであろう。「SFは絵だねえ」とするならば、今や、写真や映画が、SFアートのつくり出すイメージを懸命に追いかけようとしている時代であり、そして、こういうものが存在しないし、正当に評価されない“SF文化”というものは、きわめて跛行的なものでしかあり得ないと思うのである。

 

 

「スターログ」(1979年発行)掲載の『ドカッ”と私の前にあらわれたプロSF画家』より