大震災`95

「大震災’95」

「神戸の興行魂」いまだ死なず【96・1・6】より

 

新年おめでとうございます。

明日はもう七草だが、まだ松の内。

何となく 今年いい事ありそうな 元旦の朝 晴れて雲なし

というへなぶりを思い出すがとにかく昨年のつらい記憶を思うと、こんな歌でも、「げん直し」のために唱えたくなる。

だが一方、現実には、四万七千五百戸余の「仮設住宅」などで、七万人の被災者の方たちが年を越した。 --もう一つ、地元の心配は、昨年末から、阪神間を中心に猛威を振るい始めているインフルエンザのことがある。小学校約十校の数十のクラスの学級閉鎖が続き、とうとう昨年末には、宝塚の小学校が「全校閉鎖」の措置を取らざるを得なくなった。

インフルエンザは徐々に私の住む箕面市にも触手を伸ばしつつあり、孫たちが少々心配だが --しかし「疫学的統計」によれば、ヤマ場はもうちょっとで越えるだろうと確信はしている。

そのうえ、歳末も押し詰まってから、芦屋市の仮設住宅で火災があり、数軒が焼け、入居者の何人かが負傷した。入居被災者にとっては、二重の悲運だが、被災地には、まだこういった脆弱性が随所に残っており、当事者、周辺の警戒とサポートは、まだまだ緩めるわけにはいくまい。 --これから二月にかけて、寒気と年末に降ったような雪が心配されるし、「生活再建」の道も厳しいであろうが、もう少し頑張ってください。その向こうには、やがて春の足音も聞こえてくるでしょうから。

ところで、一九九五年最後の回の締め切り間際になって、地元から一つの「朗報」がもたらされたが、紙数の関係で、あらためてご紹介すると約束した。

朗報というのはほかでもない。あの三宮駅の東南角にあって、そごう百貨店とともに被害を被り、その後完全に取り壊された「神戸国際会館」が、神戸市中央区の東川崎町一丁目、ハーバーランドの一画、阪急百貨店に接する四六〇〇平方メートルほどの空き地に仮設ホールを建て、「神戸国際会館・ハーバーランド・プラザ」の名称で、先月初め、九五年十二月六日から、興行を開始したというニュースである。

建物は約二七五〇平方メートル、鉄骨トラス構造で一部はテントだが、一応千九百の固定席 --ただし平土間一階のみである --と間口十八メートル、奥行き十四・四メートルの舞台に、照明・音響設備を備え、オープン以来、アメリカのロックグループ「シカゴ」や、シーナ・イーストンも来演して、大いに盛り上がったという。

これを朗報というのは、特に私のような、若い時期の大部分を神戸に接して過ごしたものにとって「神戸国際会館」には、特別の思い入れがあるからだ。

もう、四十年近い昔になるだろうか ? --大小の映画館は数多くあったが、その他は歓楽街に付属する演芸を主とした小劇場ぐらいしかなかった神戸市の中心部に、千数百席を備えた、大きな芝居やオペラ、交響楽の上演もできる神戸国際会館と大ホールができたのは……。実をいうと、私はカラヤンの指揮をここで初めて見た。私自身も、いくつかのイベントを、この劇場でやり、ちょっと晴れがましい気分になったものである。

その国際会館が、隣接のそごう百貨店とともに甚大な被害を受けた、ということは、昨年一月後半、震災後すぐの時点で、地元の友人や、ジャーナリストから聞いた。 --二月の初頭、初めて神戸の市街地に足を踏み入れた時、加納町から中山手、下山手、元町を回り、三宮のターミナルにさしかかって、その惨状に胸のつぶれる思いを味わいながら、阪急三宮駅の変容を横目に見て、市庁舎の方へ下って来た時、私は国際会館の惨状を正視することができなかった。 --神戸の一番ステータスの高い、三宮の J R、阪急、阪神のターミナルの集合点、山陽新幹線の新神戸駅から緩やかにカーブしながら、加納町を経て、旧居留地、税関へ至るフラワーロード、そして国道 2号の交差点が集まる所に、今や老舗の「文化シンボル」として、やや古めかしい外観ながら、そびえ立っていた神戸国際会館、そしてその北の神戸新聞本社が、どちらも昔日の面影がないほどのダメージを被っていた。

--ひょっとすると、神戸はもうだめかもしれない……。

と、正直言って私はそのターミナルの情景を見て、胸のつぶれる思いを感じたものである。

゛ハイマート・ロス″(故郷喪失)という言葉が、ふと胸裏を去来した。 --港湾施設、交通インフラ、生産設備、居住区は、より効率の高い、堅牢な新しい形で復活するだろう。しかし、近代百年、戦後五十年の神戸を愛してきた私たちの「心の原風景」を形づくっていた、この三宮ターミナル界隈の「品格」は、もう二度と戻ってこないのではないか?

震災のつめ跡の無残さに、私は故もなくそう思い込んでいた。 --そしてルポを書き続けながら、「そのこと」は、なるべく考えないようにしていた。

ところが --どっこい、神戸国際会館は「生きて」いた。その事務とスタッフ系統は、比較的ダメージの少なかった神戸朝日会館 --ここのホールも健在だった --中に移し、ハーバーランドの「仮設ホール」で十二月に「興行」を再開すべく、着々と準備を進めていたばかりでなく、平成十一年には、今は完全に空き地になっている旧神戸国際会館跡に、地上二十階、地下三階の、以前よりはるかに、豪勢な「新神戸国際会館」を、事業費二百五十億円で再建する、というプランを、九月に発表していたのである。

私は、(株)神戸国際会館の古手のスタッフであり、神戸高校(私の卒業した時は神戸一中)の後輩である影山君という人物から、その「興行再開」のリポートを聞いた時、初めて、この九五年九月発表の再建案を目にした。 --途端に私は、年がいもなく、ルンルン気分になって、あちこちに電話し、祝杯をあげ、しばらくは二日酔いの連続だった。それほど、神戸国際会館のしぶとさは、私自身をも励ましてくれたのである。 --神戸の文化伝統そして文化事業は、そう簡単に、地震ぐらいで死にやしない --私の愛する神戸の魂、神戸の感性は、タフなのだ --。

と、同時に、これだけ神戸の文化活動、文化事業がダメージを受けたのに、比較的施設としてのダメージは少なかったとはいえ、早くも昨年三月上旬から、「KOBE・AID、 --がんばろや、WE LOVE・3F5D・KOBE」と銘打って、たくさんの有名タレントのチャリティーショーをがんがん打ってきた、「新神戸オリエンタル劇場」の活躍を、改めて思い起こした。「新神戸オリエンタル劇場」は、山陽新幹線・新神戸駅のすぐ西に、ダイエーの中内功氏が作った「新神戸オリエンタルホテル」のロビー階下、私の故友、開高健の名作『オーパ !』の名を付した四階のショッピングモールの中にオープンした、神戸では、比較的新しい客席数六百三十九の、劇場である。

内部被害はかなりあったらしいが、「箱」そのものは無事で、何よりも、震災のつめ跡生々しい九五年三月十一日から四月二十三日を第一節として、関西漫才の大長老、いとし・こいしさんや、ゼンジー北京さんらベテランを配した「がんばろや寄席」を皮切りに、ラテン、ジャズ、クラシック音楽、バレエ、演劇、松竹新喜劇、個人リサイタルなどを、連続的に組織、提供してきた、そのバイタリティーはすごかった。

私自身も、今になってこの三月、四月のプログラムをチェックして、こんなすごい顔ぶれが「無料」で見られるなら、行けばよかったなと思う演目もあったが --、それは「被災地地元」への励ましであるから、域外者は遠慮するのが当然であろう。しかし、出し物によっては、域外者は、通常料金の三倍、五倍払ってもいいから、「案内」さえあれば行ったかもしれない、と思うほど魅力的なものもあったのである(この「無料」の連続チャリティーは、観客の観劇習慣に対し、多少あとに問題を残したようである)。

ほかに、前述の神戸朝日会館のホールが比較的ダメージが少なく、やはり春ごろに活動再開しているが、新神戸オリエンタル劇場の活動は、すさまじいものだった --というのは、「大型チャリティープログラム」が始まった三月半ばの時点では、山陽新幹線はもとより、阪急、阪神、 JRもまだ開通しておらず、交通制限の厳しくなりだした道路しか域外タレントを運び込めず、観客はもっぱら地元の人々で、しかもまだ、被災の後片付けもどうやったらいいか、途方に暮れている段階だったからである。

逆に言えば、こんな時期だからこそ、元気のいい、「生の励まし」をやるべきだ、と判断した新神戸オリエンタル劇場のスタッフは、すごいし、すてきだったと思う。 --私が十代から接してきた、「神戸の興行魂」いまだ死なず、と実感し、国際会館の再建プランの「元気さ」とともに、私の老骨がかえって励まされた感を持ったのである。