東日本大震災から9年が経ちました。犠牲となられた方々とご遺族に、あらためて哀悼の意を表すとともに、長きにわたり困難な暮らしを余儀なくされている多くの方々に一日も早く安らかな日々が戻られることをお祈りします。小松左京の父方の先祖は、南房総の相浜(あいのはま)の網元であり、幕末におきた安政大地震に遭遇した際、屋敷が津波にさらわれる被害を受けました。地形が変わったことで、それまでの漁場で魚が獲れなくなり網元の仕事も痛手を負いました。
全てを失った翌日、一本の掛け軸が波に打ち寄せられ戻ってきました。
幼かった小松左京は、代々伝わる掛け軸とともに大津波の恐ろしさを聞かされ育ちました。

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小松家伝来掛け軸

小松左京の母は関東大震災を経験しており、安政の大津波と関東大震災という二つの大災害の記憶から、小松の家には災害に備える家風がありました。
小松左京は1997年の防災に関する講演で、関東大震災での母親の体験談、そして阪神淡路大震災でのボランティアの目をみはるような活躍に言及しています。

 

私の母は19歳のときに、日本橋の人形町であの関東大震災に遭いました。それでしょうがないんで八王子の親戚のところまで2日間歩いて行った。母の覚えているのは、もうとにかくあっちに火、こっちに火で火事が一番怖いという話と、それから、歩いて行く途中の沿道の人たちの炊き出し、いろいろなものを持っていきなさいという、あの温かさが忘れられないと。でも、恐ろしいですよと言っていたんです。

<中略>

それから、今度はボランティアが、これはすごいんですが、140万人が働きました。7割ぐらいは若い人でした。このボランティアはまだちゃんとした社会評価も、それから経済評価もされてないんですね。彼らはみんな、お金をもらわずに働いているんですよ。140万人を雇ってきて、あれやれ、これやれというのは大変なことです。日本の社会の豊かさというものは、あの若い人たちにそういうふうに自分の出費でもって動くことができるだけの豊かさが、そこを支えていたということです。

 基調講演「災害・防災の“ビジョン”を描く」(1997年)より

 

災害に備える文化と危機を乗り越えるために互いに助け合うという精神は、小松の家に限るものではなく、地震や台風、飢饉など様々な災害に見舞われ続けた多くの日本の家庭に、時を超え広く浸透していました。

 

小松左京は2011年に発生した東日本大震災の被害のあまりの大きさに衝撃を受け、『日本沈没』の作者としての意見を求める取材の申し出を全て辞退しました。そして、絶望のあまり体調を急激に悪化させ、その4ヶ月後の夏に亡くなりました、
しかし、その死を目前にして、この国の未来は「ユートピア」になるという、希望とも取れる最後のメッセージを残しました。

あらゆる取材を拒んでいた小松左京は、一度だけインタビューに応じていました。それは楽しかった子供時代に愛読していた毎日小学生新聞に対してであり、災害直後の日本人がとった沈着冷静な態度に対する世界の反応に対して言及しました。

世界の人がほめてましたね。これは、うれしかった。自然に生かされている日本人の優しさ、だな。日本は必ず立ち直りますよ。自信をもっていい。

毎日小学生新聞(2011年7月16日)より

 

 

東日本大震災で世界の人が高く評価した日本人の沈着冷静な態度の原動力は、小松左京の母が関東大震災で体験し、また阪神淡路大震災のボランティアにも見られた日本人の温かさではないでしょうか。
どんなに言葉を尽くしても、被災され、家族、友人、住む場所、数え切れない大切なものを失った人々を心の底から癒やすことは困難です。
けれど、多くの日本人の心の底にある、危機においてもお互いに助け合う、優しさ、温かさこそが、東日本大震災のこれからの復興に、そしてこの国が新たな災難に見舞われた時にも生かされることを心より願います。

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小松左京肖像<©生賴範義>