このたびの大阪府地震で亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を捧げますとともに、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。

今回の地震は、通勤通学時間に大規模都市圏を含むエリアで発生した地震であり、特に交通網に大きな影響を与えました。

小松左京は、1995年の「阪神淡路大震災」発生の際、自らの足で災害現場を巡り、関係者や識者にインタビューを行う形で、週1回の新聞連載に挑戦し、この困難にどう立ち向かうべきかの提言を行いました。

1995年の阪神淡路大震災の際に作成したリポートの一部を掲載させていただきます。

災害と交通インフラに関して言及しています。

2001小松

 

 

 

 

 

『大震災’95』より

 

十カ月目の被災地を空から見た

 

十一月の末に、ヘリコプターに乗る機会があった。

本命は、建設省近畿地方建設局河川部関係の依頼で、淀川水系の現状を空から視察することであったが、震災後の阪神間諸河川の状況も調査項目に入っていた。

実は、これまでも五月の連休のころと、七月ごろ、二度ほどヘリで被災地を視察しないか、という誘いがあった。 --だが、そのころはまだ、被災地の片付けや復興のために、地元の人たちや、レスキューが、あるいは工事関係のグループが、それこそ「地をはう」ように動き回っている時期で、そこを空から「高みの見物」をするのは何となく気が引けて、断ってしまった。

しかし、今回の主目的は「別件」で、取材範囲の一部に被災地が含まれているので、参加することにした。

その日、十一月二十八日は、快晴で風もなく、晩秋にしては暖かな日だった。 --そして、その日は朗報があった。

震災の時、落下した国道171号の、阪急今津線の西宮北口-門戸厄神駅間を越える四車線の跨線橋が、その日の朝六時、十カ月と十日ぶりに復旧、開通したのである。箕面市の私の家の、すぐ南を東西に走る171号は、車の流れもスムーズになったように見え、交通量も増えたようだった。三カ月前、この171号をタクシーで走った時は、今津線の手前で南に曲がり、迷路のような狭い街路を右に折れ、左に折れ、時には逆戻りするような感じで、やっと幅狭い踏切に出、遮断機の前で長い車の列の後について電車の上下線通過を何回か待ちながら、やっと踏切を渡り、また狭い路地を曲折して、やっと元の171号の今津線西側に「復帰」するのに、二十分以上かかったろうか。この狭い、折れ曲がったう回路に、乗用車だけでなく、バンや小型トラックも押しかけるのだから、周辺の古い住宅街は、さぞ迷惑だったろう。

だが、とにかく、その日の朝、阪急今津線をまたぐ跨線橋は再開し、複雑極まるう回路の使用がなくなったのは、この地域の生活にとってめでたいことだった。 --ただ、西宮東口あたりの、171号と国道2号の交差点の混雑が、まだ気になっていたが……。

私たち河川研究懇談会のメンバーは、市内のホテルに集合し、そこから大阪湾北港の埋め立て地の一つ「舞洲」に車で向かった。建設省所有の大型ヘリ「青空」は、その日神戸から、舞洲のヘリ発着場へ飛んできて、私たちを乗せるということだったが、舞洲そのものは、まだ埋め立てられたばかりで、ほとんど何の建物も建っておらず、黄色い枯れ草に覆われた、広大平たんな土地に舗装道路がまっすぐ通り、ところどころに仮設トイレ群や、仮設家屋が、寒々と見受けられるくらいだった。

ガードマンのいる小屋で聞いたヘリポートへの入り口を、ついうっかり見過ごして埋め立て工事中の岸辺に出てしまい、引き返してやっとそれらしいゲートを見つけ、フェンスの中に入って行くと、草っぱらの中に作業員宿舎のような灰色の建物がポツンと一軒建っている。その向こうに、一応滑走路らしい舗装面があって、一端に内にHの字が大きく描かれている。すぐ目の前は、海を隔てて対岸・尼崎の工場群が昼近い日を受けて光っている。海から吹く微風はさすがに冷たいが、六甲の山稜はくっきりとくまなく見てとられ、雲一つない大快晴だった。

間もなく、西の空に黒い点が現れて埋め立て地に近付いてくる。そして眼前の急造発着場にローターをごうごうと鳴らして、大型ヘリが着陸した。懇談会メンバーの学者、環境デザイナー、文化人のほか、二、三人の地方建設局関係者を含めて、総勢十二人が観測機材とともに乗り込めるというでかいヘリである。

離陸するとすぐ、ヘリは新淀川河口と神崎川河口をかすめて西へ飛ぶ。 --私は、ふだんあまり使ったことのない超小型の双眼鏡を時々のぞいた。

武庫川河口を過ぎて西宮市にかかると、甲子園球場の扇形が見えてくる。春、夏の高校野球は、多少の物議を醸しながら行われたが、むしろ地元への励ましになった面が大きかった、とも聞いた。 --続いて名神高速西宮の大ループ、阪神高速がまだ開通していないからか、ここで下りる車の数はまだ多くない。

風もなく、気流も安定しているので、ヘリは市街地高度制限ギリギリの三百-四百メートルの高度で、ゆっくり阪神間の海岸沿いに西へ向かう。 --阪神、JR、阪急の電車は、光りながら元気よく走っているが、国道2号は渋滞気味だ。43号の上には、落下した阪神高速の、巨大な空虚と、途切れ途切れに残存した橋げたのコントラストが痛々しい。43号の交通量もまだ制限中なのかあまり多くない。一番新しい湾岸道路の交通量も、大型トラックを含めてさほどではないようだった。

双眼鏡をのぞくと、西宮、芦屋の倒壊家屋の撤去はほとんど済み、瓦礫も片付けられたようだ。西へ行くにつれて市街地の空白が目立つようになってくる。 --残った家屋にも、まだ青いビニール製の防水シートをかぶせた屋根が増えてくる。被災から十カ月以上たっているのに、まだ完全な修理ができていないらしい。

六甲アイランドの埠頭には、コンテナ船らしい船が接岸して、作業が始まっているようだった。二週間ほど前に復旧した、というニュースを聞いた記憶がある。

三宮の駅前にさしかかると、街がすかすかになった印象を受ける。六、七階建てだったと記憶する阪急三宮駅ビルは二階建てになってしまった。かつて、演劇やコンサートが開かれ、私も学生時分、たびたび訪れた神戸国際会館は、完全に撤去され、あと、がらんとした空白が残っているだけだ。そごう百貨店に接した三宮ビルもなくなってしまった。

フラワーロードに面した神戸市庁舎も、高層ビルの一号館はしゃんとしていたが、八階建ての旧庁舎・二号館は、六階部分が完全に挫屈し、陸橋も落ちていたのが、五階以上の部分が完全に取り払われ、それでも下の部分の使用が再開されているようだった。 --地上を歩けば、神戸の空は、広くなったように見えるだろうが、空から見ると、神戸の街は、何だか縮んだような感じだった。

長田区に入ると、まだ焼け跡が広く残っているのが目についた。それでも、三宮センター街はじめ、直後は廃虚と瓦礫の集積だった繁華街が、ようやく街並みを整え、人通りも増えているのが、華やぎと活気の復活を感じさせる。 --しかし、ポートアイランドの上を飛んだ時、高層ビルやマンション、ホテル群から外れた一画に、低く、細長い、灰色の箱のような建物が蝟集しているのを見て、胸が痛んだ。八ブロック、三千百戸の仮設住宅に、今も五千人の人々が住み、厳しい冬を迎えようとしている。軽量の薄いパネルを組み合わせただけの仮設住宅は、保温性が悪くて、エアコンをつけても夏暑く、冬寒いことは、私自身、博覧会の時の作業員宿舎などに泊まって知っている。ご年配の方たちは大変なことだろう。

神戸港西部から引き返し、淀川水系をさかのぼり始めてから、私は今見てきた阪神間の空からの風景を思い出してショックをうけた。神崎川、淀川の流れる大阪平野の広やかさに比べて、阪神間にはほとんど農地、緑地がない。西宮、芦屋、灘と、六甲山地が海岸線に迫る。狭長なスペースに、日本の東西をつなぐ大動脈である幹線道路、交通インフラが「超過密」ともいうべき状態で何本も並行して走り、その間を住宅と商店街、道路沿いのビル、公共建築がぎっしりと埋めているのだ。 --この超過密交通インフラが、何回か前に述べたように「山近く、海近く、交通至便」といういい印象を与えたのだろうが、それは私が西宮に住んでいた昭和十年代から二十年代後半ぐらいまでで、今、空から阪神間を見ると、何かものすごいことになっている。「緑がある」というのは、六甲山南斜面が近いことによる錯覚で、それも鶴甲団地などで、かなり宅地化している。もっともすごいのは西宮で、阪急夙川駅から阪神香枦園駅までの間、わずか一キロの間に、この二線のほかにJRと国道2号が走っている。さらに阪神から海岸線までの一キロの間に国道43号とその上の阪神高速、さらに最近では海岸線に湾岸道路が走る。二キロ余の幅の間に、何と七本の交通インフラが並行しているのだ。よく山陽新幹線を西宮から北西行させて、六甲山をくしざしトンネルで新神戸へ出したものだ。中国自動車道は、ようやく六甲の北側をう回するようになったが、この阪神間の幹線交通の超過密、市街地の過重負担状態は、将来の国土軸保全に関して、何か新しいアイデアや改良プランを必要としないだろうか?

【95・12・23】