1970年の大阪万博開催から50年が経ちました。

小松左京夫妻と太陽の塔

 

<知的ボランティア万国博を考える会>

東京オリンピックの開催を目前とした1964年7月、日本の文化人類学のパイオニアである梅棹忠夫先生、メディア論や社会論などで多くの実績を残す加藤秀俊先生、作家デビュー間もない小松左京など、当時新進気鋭であった知識人達により「万国博を考える会」が発足されました。

大阪市、博覧会事務局などの依頼ではなく、自発的に万博の歴史、問題点、あるべき姿などを詳細かつ多角的に検討し続け、最終的には、万博プロジェクト本体とも深く係わわることになりました。

1965年11月パリで開かれる万国博国際理事会に提出しなければならないテーマと基本理念に関しては、「万国博を考える会」での研究の蓄積を基に、梅棹先生を中心とするメンバーが泊まり込みで草案をまとめました。大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」は、この時の草案を基にして掲げられました。

 このような今日の世界を直視しながらも、なお私たちは人類の未来の繁栄をひらきうる知恵の存在を信じる。しかし私たちはその知恵の光が地球上の一地域に局限されて存在するものではなく、人間のあるところすべての場所にあまねく輝いているものであることを信じるものである。この多様な人類の知恵がもし有効に交流し、刺激しあうならば、そこに高次の知恵が生まれ、異なる伝統のあいだの理解と寛容によって、全人類のよりよい生活に向かっての調和的発展をもたらすことができるであろう。

 万国博基本理念より

 

 

小松左京は、草案作成時の気持ちを次のように述べています。

『今は、とにかくスピードが要求されている時だった。そして、わずか二カ月たらずで、テーマと基本理念をこしらえるという「突貫作業」は私たちが一年半もの間、知る人に「お先っぱしり」と冷やかされながらつづけてきた研究の蓄積をフルに利用することによって、可能になったといえるだろう』

<中略>

これも浮き世の義理だ、とか、前世の業だろうなどとぼやきながら、ついには泊りこみで作業をつづけた。――ついにひっくりかえってしまった梅棹氏を、広瀬が自宅でカン詰めにして、ついに文章の骨格ができ、それを桑原氏が中心になって、全体にポリッシュをかさね、ようやく第三回テーマ委員会の前々夜、草案が完成した。「基本理念」の草案は、二十日の第三回テーマ委員会に提出され、ほとんど無修正で採択になった。――そしてこの文章をもとにして、「人類の進歩と調和」というテーマがうまれ、二十五日の理事会で正式採択された。

新潮文庫『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』より

 

 

<見つかった資料>

勝手連的に始まり、大阪万博のテーマ、基本理念まで構築し、ついには一大国家プロジェクトを動かした「万国博を考える会」ですが、公式記録には記載がなく、特に資料などは残されていないと考えられていました。

しかし、小松左京の没後、遺品の中から会の発足時のものを含め議事録やメモなどが多数見つかりました。

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<日本沈没との関連>

小松左京の「日本沈没」では、日本列島の地下深く進行している巨大地殻変動の兆候をいち早くキャッチした田所博士を中心とした有志が、政府が動くまでに、様々な調査、検討を独自に重ね、実際の日本人脱出計画のマスタープランを構築してゆきます。

厳選されたブレインが箱根の屋敷にこもり、徹夜の連続で日本沈没後の日本人のあり方を練り上げる様子は、「万国博を考える会」のメンバーが、パリでひらかれる万国博国際理事会に提出するため、大阪万博の基本理念の草案を泊りこみで作成しつづけた姿と重なります。

小松本人も次のように感慨を語っています。

 

『あれだけの国家的イベントの建設作業に関わることができたのは、貴重な体験だったと思っている。官僚組織や国家機構を内部から見た経験は、結果的には「日本沈没」執筆の際にも活かされている』

「SF魂」(新潮新書)より

 日本沈没表紙

 

小松左京は、「万国博を考える会」のミッションとして、テーマ展示である太陽の塔を創り上げた岡本太郎先生を支えるべく、サブプロデューサーの任に着き、地下展示を担当しました。作品、人物ともに魅了されていた岡本太郎先生と仕事をすることに、喜びとともに重圧を感じていたようですが、自身の担当した地下世界から太陽の塔の内部を貫き天に上る生命の樹を見た時は、心から感動したことと思います。

小松左京はSF作家のデビュー前に、学生漫画家モリ・ミノルとして非常に短い期間活躍していたのですが、その頃、子供たちに科学の楽しみを知ってもらおうと描いた進化をテーマとした漫画「ぼくらの地球」が、動く立体物として、圧倒的な迫力で存在していたからです。

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太陽の塔、つまりテーマ館の中の展示を岡本さんと考えた。DNAの一兆倍ぐらいの模型をつくり、生物の進化の過程を見せることにした。映画の特撮も駆使してゴジラや恐竜なども現れ、最後に人間が登場する。高さ四十五メートル。「生命の樹」と名づけた。

『小松左京自伝』(日本経済新聞出版社)より

 *注 「生命の樹」にはゴジラはいません(何か勘違いしていたようです・・・)。

 

 

 

<万国博を考える会の終焉>

小松左京は「万国博を考える会」の回顧録を次のように締めくくっています

 

日本万国博は、世界七十六カ国という空前の参加国をあつめることができた。特にアジア、アフリカ、その他の開発途上国が、多数参加し、会場内展示スペースでも優遇されている。テーマ館は無事に出現した。それだけでも、もう成功したも同然だ。万国博そのものについて考えていたことは、すでに協会側の責任ある人々にすっかり渡してしまってあるし、万国博という社会的イヴェントについて抱いた興味はもっと発展した形で、未来学の方にうけつがれてしまっている。二年ほど前から、梅棹氏あたりとしきりに論じはじめていたのは「人類滅亡の可能性とその諸相」といった問題だった。
--三月十四日午前零時を期して、奇蹟のように一斉に開通した大道路をはしりながら、ずいぶん「後始末」に手間を食っちまったものだとぼんやり考えていた。少し疲れ、少し年をとったような感じがした。--そして強い酒が無性に飲みたかった。

新潮文庫『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』より

 

 

人類の破滅を回避し、より良い世界を模索する試みは「万国博を考える会」と併行して進められていた「未来学会」の活動へと受け継がれました。

未来学会(1970)