小松左京氏とわたし

平谷美樹

 第一回小松左京賞を受賞しながら、小松氏と直接話したことは数えるほどしかありません。しかし、お会いするたびに、その好奇心と博学ぶりには驚かされました。ご自分のご存じのない分野のことになると、納得なさるまで数々の質問が飛び出すのです。

 そういう氏ですから、作品は綿密な取材のもとに執筆なさいました。文献を集め、必要ならばどこへでも取材旅行へ赴く――。まさにバイタリティーの人でした。

 空前の大ベストセラーになった【日本沈没】も、膨大なデータを元に描かれた作品です。

 そして、一九九五年一月十七日。その作品の一部分がそっくり再現されたかのような阪神淡路大震災が起こりました。

 小松氏は被災地を走り回り、取材をして、新聞へルポルタージュの連載を開始しました。なぜこの震災が起こったのか――。それを綿密な取材とデータ収集で浮き彫りにして行ったのです。

 小松氏は、過酷な震災の取材のために体調を崩されました。

 わたしが第一回小松左京賞を受賞した頃も、まだ本調子には戻られていませんでした。

 そして阪神淡路大震災から十六年後。わたしが小松左京賞を受賞して十一年後。

 東日本大震災が起こりました。

 停電の続く中、ラジオのニュースで大津波が発生し、沿岸に甚大な被害を与えたことを知りました。

 その時、わたしが思い出したのは、小松氏のことでした。

 わたしも被災地に出かけ、取材をしよう――。

 と、思ったのは一瞬でした。

 その思いをかき消したのは、一つの“壁”でした。

 今、わたしが沿岸に行って取材をして何になるのか?

 わたしは小説家であって、ノンフィクションライターではない。ノンフィクションを書く素養もない自分が行って、何になるのか?

 今、被災した人々は必死で生き延びようとしている。そんなところにのこのこ出かけていって、何を取材するというのだ?

 そういう思いがわたしの前に立ちはだかったのです。

 わたしは、そんな自分の姿を不甲斐ないと感じ、悔しく思いました。

 結局、わたしは被災地に出かけることはありませんでした。

 以前住んだことのある沿岸の街に出かけられる心構えが出来上がったのは、あの年の秋でした。

 わたしが越えられなかった壁を、小松氏はどうやって越えたのか?

 なにが、小松氏の活動のエネルギーとなったのか?

 それをお訊きすることはついにできませんでした。

 しかし、わたしは今、高い高い“壁”をよじ登りつつあります。わたしに出来る方法で東日本大震災と、大津波の災害に向き合う――。

 わたしは小説家ですから、小説を書くことによって、震災について語り続けることができます。

 直接的にわたしたちを襲った震災を描くことはありませんが、作品の中に為政者の姿勢とか、民衆の心の在り方とかを織り込んでいます。

【風の王国】という作品の中には、津波に呑み込まれる十三湊を描きました。震災を体験した我々は、今後、このように生きて行かなければならないのではないか――? そういう思いを込めました。

 小松氏は現在の世相と膨大なデータによって、未来の可能性の世界を描きました。

 わたしも小説執筆には膨大なデータを用いますが、今は過去の出来事から現在を見つめる小説を執筆し続けています。

 今、冷静に考えてみれば、小松氏とわたしは、執筆や生き方のスタンスが異なっていました。

 だからこそ、小松氏はすぐさま壁を乗り越え、わたしは壁の前で時期を待ったのです。

 わたしが、わたしなりに動き出すためには、それだけの時間が必要だったのです。

 小松氏が亡くなったとき、出版社から追悼のコメントを求められたのですが、あまりにも衝撃が大きかったのでお断りしました。ですが、今わたしはこうやって、小松左京氏のことを書いています。わたしが、わたしなりの言葉で小松氏を語るためには、これだけの時間が必要だったのです。

 知の巨人、バイタリティーの人であった小松左京氏が登った壁を、同じ方向から同じ方法で登ることは誰にもできません。

 わたしはわたしなりに壁を登ろう。それは恥ずかしいことではない。不甲斐なく思うことも、悔しいと思うこともないのだ。

 小松左京賞をいただきながら、最近はもっぱら歴史・時代小説を書いていて、内心忸怩たる思いがありましたが、それもまた「わたしはわたしなりに」です。

 わたしは、わたしなりに。

 あなたは、あなたなりに。