小松左京作品と静岡①  初の長編『日本アパッチ族』(1964年)より

 

無題

食鉄新人類・日本アパッチ族の広大な居留地は静岡に建設され、日本人と日本アパッチ族は共存の道を進むはずでした・・・。

 

政府との暫定協定が、まだ成立しないうちに、アパッチ大集団の「居留地」への移動がはじまった。野田某の提供した「居留地」--まだ非公式のものだったが--東海地区静岡付近の海岸地帯にある広大な埋立地だった。
この居留地に集結したアパッチは総数約二万--つまり統一アパッチ族のごく一部だった。私にしてみれば、自分ではけっして顔を出さず、代理をもってすべての対アパッチ交渉をやった野田某の腹のうちが、さっぱりわからなかったのみならず、政府同様、私も彼のやり方に多少疑心暗鬼のかっこうだったのである。
政府との間に行なわれている居留地問題交渉において、徹底的に両者が食いちがってしまったのは、つぎの二点だった。--すなわち、政府は「原アパッチ族」総数約三百名と「二次感染者」すなわち、あの事件以後、食鉄習慣にそまった大多数の連中とを分離したいという強い意向をもっていた。できれば「原アパッチ」に、あの大阪東区の追放地を居留地として与え、その中に厳重にとじこめてしまう。二次感染者は、小集団別に細分隔離する--しかし、そんな虫のいい居留地細分化が、アパッチにうけいれられるはずはなかった。
「居留地小分割反対! 全国のアパッチ、団結せよ!」そんなビラが--要するに一般市民に対する宣伝だったが--一夜のうちにべたべた街にはられた。「アパッチは一つだ! われらにこそ、真の鉄の団結がある」
それともう一つは、アパッチが居留地外との交渉をもつことを強く禁ずる態度に出てきたことである。--これもアパッチ側からは、猛烈に反対されていた。政府の案としては、アパッチの生活確保については、「アパッチ交易公団」をつくり、ここを通じてアパッチは、その低廉にして強力、かつ特異な労働力を提供するとひきかえに、公団側はアパッチの食糧であるところの、屑鉄または銑鉄、その他の薬品類の供給を行なう。そのかわり外部との交渉は、いっさい断つことを希望してきた。これに対してアパッチ側は、居留地内の定住はかたくまもるかわりに、その交易は、アパッチ側において自由に民間と直接行なうこと、また一般市民との交流も自由に行ない、居留地外においては、国内居住外国人なみのあつかいをすること、などを要望していた。