「欠けていた「海」の視点」(『大震災`95』より)

 一九九五年一月十七日の震災当日からほぼ六カ月の間に、中部方面隊を中核とする全国の陸上自衛隊の災害出動人員数は、延べ百六十四万人にのぼった。しかし、こういった大規模震災に対する救難救助については、中部方面隊はあまり出動要請経験がなく、 --第一、この地域では、自衛隊設立以来、「大震災」というものがなかったのである --それだけに圧倒的な「震災対策用装備不足」に悩まされた。倒壊家屋、ビルの下からの人命救助に必要な、チェーンソーやジャッキ、カッターさえ数えるほどしかなく、バールやつるはし、シャベルなどを使って、人海戦術で対処するしかなかったという。

 それでも規律正しい集団の、屈強な若者たちのきびきびとした動きと、ある程度の危険も恐れぬ挺身ぶりは、私も何度か見かけたが、被災地住民に「たのもしさ」を感じさせるものがあっただろう。中には汚物混じりの生ごみを、手で集めたケースもあったという。 --隊所属のダンプ、トラック四百台が昼夜フル回転し塵芥、瓦礫五千トンが被災地から出された。

 海自、空自ももちろん緊急災害出動し、三隊をあわせると、その動員数は延べ二百五十万人におよんだという。文字通りの「大作戦」である。

 しかし、陸自中部方面隊への、神戸、県からの出動要請は、十七日当日午前十時になされ、ただちに行動に移れたが、海自、空自への出動要請は遅れた。はっきりいって兵庫県は --ひょっとしたら中央も --大震災に際しての海自、空自の「使い方」をよく知らなかったのではないかと思われる(東京都の場合は、八三年の三宅島噴火をはじめ、海自の救難活動を有効に使ったケースが少なくない)。

 震災当日からまる四日の一月二十一日土曜日の午前八時、この海域を管轄する海上自衛隊呉地方総監部から川村成之防衛部長の談話の形で、関西のマスコミ各社に、こんな熱い「叫び」のようなファクスが届いた。 --いわく、

 「海上自衛隊はさまざまな支援能力があるが、対策本部からの要請がないので実際行動に移れていない。こちらからもさまざまな提案を対策本部にしているが、マスコミからもアピールしてもらえれば、より有意義な活動が出来る」

 「要請があれば出来る活動。

 危険地域から海上救出作戦の実施(そのための待機) --六甲アイランドの住民は液化石油ガスタンクの爆発の危険を感じているが、今の状態では非常時に救出できない。

 ヘリコプター護衛艦とヘリコプターによるスピード輸送。

 物資以外の人などの海上輸送。

 物資以外にも一般の人の輸送も可。

 六甲アイランドのような、埠頭に被害がある場合にも海上自衛隊なら問題ない。海上ルートが確保出来れば、一般車両が減り、地上の緊急輸送網が円滑に動く。海上自衛隊艦船の施設提供。

 ふろ、トイレなどの利用。

 一部宿泊。

 治療(船医による)。

 しかし現在は、要請がないので、これらの行動が起こせない状態。対策本部からの正式要求が出るようにアピール願いたい」

 このペーパーを私が目にしたのは、ずっと後のことである。 --しかし、阪神間育ちで神戸の旧制中学で五年間をすごした私は、「神戸」と聞くとすぐ「港・海」という連想が働き、一月二十日付の朝日新聞に、「緊急避難住宅に客船を借りてはどうか……」という提案記事を書いていた。

 この震災が、内陸の盆地などで起こったなら、そうはいくまいが、何しろ神戸から阪神間は、すぐ目の前に大阪湾がある。 --海上を直線で結べば、わずか三十キロそこそこの所に、ほとんど無傷の大阪湾があり、六甲、芦屋のフェリー埠頭に、もしまだ、フェリーが係留したままなら、有力な「居住空間」にも、また運搬にも使えるではないか、と思ったのである。内航だけでなく、日本は豪華なオーシャン・クリッパーを何隻も持った船会社がいくつもあり、それには快適なエアコン付きの船室と、香港や東南アジアまで無補給で行けるだけの水や食料、油を積めるはずだ。とりあえず、緊急避難用にその何隻かを神戸沖に回航し、高齢者や子供、病人に、「あたたかい生活」を提供できるのではないか? --病室もあれば、船医もいるし、長距離ファミリー航海のための子供の遊戯室もある。内海、沿海用で最低数百人、豪華客船なら千人から二千人の収容能力があるし、大阪、和歌山、徳島方面からの海上補給は、その気になれば簡単だろう。

 私の記事を読んでくれたのかどうかは知らないが、日本船主協会は、この事態に敏感に反応し、早い時期、たしか一月中に客船を何隻か神戸港に回航した。近く廃船になる客船を係留して、そのまま「洋上住宅」にする案も検討されたらしい。

 だが、問題はこれからだった。港湾都市、神戸沿海都市阪神間で、必ずしも「海」と「陸」とのすり合わせが、しっくりいかなかった。 --かなりたってから、行政末端と「海からの支援」のパイプがつながったが、せっかく回航された客船も、最初はアクセスの悪さもあってか市民の避難がなくて、がらがらの状況だったらしい。そこで、スイスやフランスからの捜査犬を連れて来た救援隊の宿舎に使われていたようだ。後には、主に年配の人たちの利用があったというが、はたから見ても、何かよそよそしい関係だった。

 海自はとりあえず三千トンの飲料水を積んだ水船を回航したが、これも神戸市側とのつなぎがうまくいかず、一日目はわずか一・五トン、二日目でやっと百五十トンの給水を行っただけという。

 船会社も海自も、こういう時に市民に、「助けに来ています」と呼びかける、強力な広報チャンネルを持っていなかったこともあるだろうし、行政現場も、当面目前の対応に忙殺されて、気が回らなかったこともあったろうが、それにしても行政、市民両サイドで、避難、支援のラインとして「海」というものに対する感覚がすっぽり抜け落ちているように感じられるのが、私としてはちょっと異様に思えた。 --むしろ「山」や「内陸」に対する方向感覚はあったようだが……。

 一月末ごろ、私は海岸地帯の被害を観察する船に便乗する機会を得て、尼崎、西宮、芦屋から深江、魚崎、摩耶埠頭、六甲アイランド、ポートアイランドを沖合から見ることができた。接岸は出来なかったが、双眼鏡でコンテナ埠頭のクレーンのほとんどが水中にひっくり返っているシーンや護岸工事の破壊ぶりを垣間見ることができた。芦屋浜や深江、ポートアイランドの高層マンションは無事だったが、沿海コンビナート群は相当の打撃を被っているようだった。

 双眼鏡をのぞきながら、ふと私は、私の幼時から親しんできた阪神間を、永らく「海から」見たことがなかったことに気がついた。 --同時に、十五年ほど前、ポートアイランドがオープンした記念に行われた国際博「ポートピア ’81」に関係して、初めてこの人工島に足を踏み入れた時、街路を歩きながら、どちらを見ても高い防潮堤に囲まれて、海が全然見えないことに気がついて、何とも言えぬ奇妙な感覚に襲われたことを思い出した。確かに海はすぐそこにあり、ビルやホテルの二、三階に上れば、海面も港湾も見えるのだが、グラウンドレベルを歩きながら目線の高さで見回しても、渚も見えなければ、ほとんど海の気配が感じられないのだった。

 帰路、芦屋、西宮海岸のフェリー埠頭を遠望しながら、私はいささか感傷的になった。 --私が幼少年期をすごした戦前の「阪神間」は、その幾何学的に埋め立てられ、四角い建物、高層マンションがそびえる沿岸地帯の「向こう側」にあった。

 昭和十年から三十六年までの二十六年間、私は両親家族とともに西宮の夙川[しゅくがわ]、後には今津に住んでいた。とりわけ戦前の西宮、芦屋は、北に六甲の緑、甲山の紫を配し、夙川の家から香枦園の白砂青松にふちどられた海水浴場まで、小学生の足でも三、四十分だった。阪神甲子園駅から、甲子園線に乗れば(この路面電車は、夏は納涼電車という風流なものを走らせた)、阪神パークから甲子園海水浴場まですぐだし、魚崎、深江あたりでは、灘の大きな木造の酒蔵のすき間から、やはり「泳げる」海が見えていた。

 泳ぐばかりでなく、砂浜から投げ釣りをして、キスや小さなカレイを釣り、アサリを掘り、時にはイワシ網のひき網を手伝って、小さなバケツ一杯の銀鱗[ぎんりん]おどるイワシを分けてもらい、父に連れられて釣り舟に乗って沖へ出て、しゃくり釣りでベラなどを釣った。

【95・11・18】