「第55回 日本SF大会  いせしまこん」開催おめでとうございます。

小松左京は今回の会場となった鳥羽が大好きで、夏といわず冬といわずよく出かけていました。

そして、この地で開かれていた会合メンバーから「万国博を考える会」が生まれ、小松左京が万博そして太陽の塔とかかわることとなりました。

 

万博誕生秘話です。

 

昭和三十八年の終わりごろ、梅棹さんを中心に私的研究会ができ、私も喜んで加わった。

日本の行く末について幅広く議論するのだが、堅苦しい集まりではなく、知的な遊びのような雰囲気だった。

メンバーは梅棹さん、林雄二郎、川添登、加藤秀俊の各氏、それに私で、林さんは当時、経済企画庁の経済研究所所長、川添さんは建築評論家、加藤さんは京大教育学部の助教授だった。全員が三、四十代だった。

日本全体が若くて、おおらかだった。何よりエネルギーにあふれていたと思う。官僚的な管理が社会の隅々にまで行き渡り、万事無難でこせこせした今の世の中とはまったく違って、社会全体、風通しが良かった。面白い人材もたくさんいた。そうした人たちが個人の利害や金儲けや立身出世なんか考えないで、知的好奇心の赴くままに愉快に語り合った。

日本をどうするのか、未来はどう切り開いていくのか、気宇壮大に、そして面白半分に語り合った。そんな場に立ち会えた幸福を今、かみしめている。

その集まりを「貝食う会」と呼んだ。三重県の鳥羽や志摩のホテルで、獲れたてのアワビやサザエ、ぴちぴちの伊勢エビや魚を食べながら、愉快な座談を繰り広げた。

翌年の東京オリンピックが話題になっていて、「五輪の次は大阪で万国博」との情報が聞こえてきたのも、ちょうどそのころのことだった。

情報がもたらされた経緯は忘れてしまったが、梅棹さんは「仁木哲から聞いたんや」と回想する。仁木さんは『放送朝日』の編集長だ。メンバー一同、「面白いことになりそやな」と大いに盛り上がり、「貝食う会」のメンバーを主体に「万国博を考える会」ができた。昭和三十九年夏のことだ。

日本はオリンピックで国際舞台に鮮やかに復帰を果たした。世界を舞台に大きな舞を舞うのが万博だ、とみんなが思っていた。国際見本市ではなく、文明の祭典にしようと話し合い、過去に評判が良かった万博のコンセプトや展示などを研究した。アジアで初開催だから、アジアの発展途上国を招待したい、その場合、資金援助はどうするのか……。検討課題はどんどんわいてきた。誰に頼まれたわけでもないのに議論は白熱して、夢中で議論し、学び、調べた。

私は子どもたちに夢を与えたいと思っていた。科学を基礎にした文明の現状や将来、人類の歴史をビジュアルに展示したかった。話はどんどん膨らむ。話題は万国博覧会を超えて、しばしば未来論になった。

万博は国家プロジェクトになり、準備が動きだした。地元大阪でも大阪商工会議所などが動きだし、われわれが議論を重ねていることを知ってアプローチが来た。だが、私たちは公式な委員会などには加わらず、実質的な演出者として陰から助言した。「人類の進歩と調和」のテーマを決めたテーマ委員の人。「人類の進歩と調和」のテーマを決めたテーマ委員の人選の原案をつくり、チーフ・プロデューサーに岡本太郎さんを推薦した。

私は万博から身を引くつもりでいた。関心はむしろ未来学にあった。「貝食う会」の議論をもとに日本未来学会が昭和四十三年(一九六八年)に創設されていた。

ところが、万博の準備が追い込みを迎えたころ、京大人文研の教授になった梅棹さんが「私は国家公務員やから表には出られん。小松君、頼みまっせ」。万博にコミットしてほしい、という依頼だった。

「小松左京自伝」(日本経済新聞出版社)より