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小松左京ライブラリ

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お知らせ

吹田市立博物館「万国博覧会-”人類の進歩と調和”に至るまで」開催について:2020年10月3日(土)~11月29日(日)

吹田市立博物館にて、「万国博覧会-”人類の進歩と調和”に至るまで」が開催されています。 :2020年10月3日(土)~11月29日(日)   この企画展では、万博にまつわる古今東西の貴重な資料が多数展示されていますが、万博の理念を構築しながらも公式記録に記載されることのなかった「万国博を考える会」に関連する資料10点も併せて展示されています(小松左京の没後に遺品の中から発見されたもの)。 万博の歴史を明らかにする貴重な資料の数々を、ご覧いただく機会あれば幸いです。   吹田市立博物館のバーチャル特別展示室では、代表的な展示品の画像がご覧いただけます。  http://www2.suita.ed.jp/hak/ten/virtual_tokubetsu_tenjisitu.html   小松左京の遺品から発見された「万国博を考える会」の詳細は本ホームページ内の小松左京の書庫でご確認いただけます。 「万国博を考える会」関連展示内容:万国博覧会-”人類の進歩と調和”に至るまで- 「万国博を考える会」の初期資料の一つ。 組織のあり方や博覧会開催までのロードマップを、多角的かつビジュアル的な手法を駆使し検討しています。

【復活の日】~感染拡大経緯~

小松左京が半世紀以上前の1964年に発表した「復活の日」は未曾有宇のパンデミックをモチーフとした作品ですが、それはインターネットはおろか、コピー機も普及しておらず、海外渡航もままならない時代に書かれたものです(執筆当時、海外旅行の経験は全くありませんでした)。 「復活の日」で小松左京は、何とか集めた資料とSFならではの制約ないイマジネーションを駆使し、人類滅亡の可能性を秘めた感染症危機とその本質を浮き彫りにしようと試みました。   古典SFといってもよいほど古い作品ですが、未知のウィルスに対処するうえでの何らかのヒントが今なお秘められているのではないかと考えます。 物語における感染拡大に焦点を当てるべく、ポイントとなったエピソードを世界地図上に時系列にまとめました。 ご覧いただければ幸いです。 *物語の核心に触れる部分もあることを、あらかじめご了承ください。 <スライドショー> <画像版>  

大阪万博開催から50年が経ちました

1970年の大阪万博開催から50年が経ちました。   <知的ボランティア万国博を考える会> 東京オリンピックの開催を目前とした1964年7月、日本の文化人類学のパイオニアである梅棹忠夫先生、メディア論や社会論などで多くの実績を残す加藤秀俊先生、作家デビュー間もない小松左京など、当時新進気鋭であった知識人達により「万国博を考える会」が発足されました。 大阪市、博覧会事務局などの依頼ではなく、自発的に万博の歴史、問題点、あるべき姿などを詳細かつ多角的に検討し続け、最終的には、万博プロジェクト本体とも深く係わわることになりました。 1965年11月パリで開かれる万国博国際理事会に提出しなければならないテーマと基本理念に関しては、「万国博を考える会」での研究の蓄積を基に、梅棹先生を中心とするメンバーが泊まり込みで草案をまとめました。大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」は、この時の草案を基にして掲げられました。  このような今日の世界を直視しながらも、なお私たちは人類の未来の繁栄をひらきうる知恵の存在を信じる。しかし私たちはその知恵の光が地球上の一地域に局限されて存在するものではなく、人間のあるところすべての場所にあまねく輝いているものであることを信じるものである。この多様な人類の知恵がもし有効に交流し、刺激しあうならば、そこに高次の知恵が生まれ、異なる伝統のあいだの理解と寛容によって、全人類のよりよい生活に向かっての調和的発展をもたらすことができるであろう。  万国博基本理念より     小松左京は、草案作成時の気持ちを次のように述べています。 『今は、とにかくスピードが要求されている時だった。そして、わずか二カ月たらずで、テーマと基本理念をこしらえるという「突貫作業」は私たちが一年半もの間、知る人に「お先っぱしり」と冷やかされながらつづけてきた研究の蓄積をフルに利用することによって、可能になったといえるだろう』 <中略> これも浮き世の義理だ、とか、前世の業だろうなどとぼやきながら、ついには泊りこみで作業をつづけた。――ついにひっくりかえってしまった梅棹氏を、広瀬が自宅でカン詰めにして、ついに文章の骨格ができ、それを桑原氏が中心になって、全体にポリッシュをかさね、ようやく第三回テーマ委員会の前々夜、草案が完成した。「基本理念」の草案は、二十日の第三回テーマ委員会に提出され、ほとんど無修正で採択になった。――そしてこの文章をもとにして、「人類の進歩と調和」というテーマがうまれ、二十五日の理事会で正式採択された。 新潮文庫『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』より     <見つかった資料> 勝手連的に始まり、大阪万博のテーマ、基本理念まで構築し、ついには一大国家プロジェクトを動かした「万国博を考える会」ですが、公式記録には記載がなく、特に資料などは残されていないと考えられていました。 しかし、小松左京の没後、遺品の中から会の発足時のものを含め議事録やメモなどが多数見つかりました。       <日本沈没との関連> 小松左京の「日本沈没」では、日本列島の地下深く進行している巨大地殻変動の兆候をいち早くキャッチした田所博士を中心とした有志が、政府が動くまでに、様々な調査、検討を独自に重ね、実際の日本人脱出計画のマスタープランを構築してゆきます。 厳選されたブレインが箱根の屋敷にこもり、徹夜の連続で日本沈没後の日本人のあり方を練り上げる様子は、「万国博を考える会」のメンバーが、パリでひらかれる万国博国際理事会に提出するため、大阪万博の基本理念の草案を泊りこみで作成しつづけた姿と重なります。 小松本人も次のように感慨を語っています。   『あれだけの国家的イベントの建設作業に関わることができたのは、貴重な体験だったと思っている。官僚組織や国家機構を内部から見た経験は、結果的には「日本沈没」執筆の際にも活かされている』 「SF魂」(新潮新書)より     小松左京は、「万国博を考える会」のミッションとして、テーマ展示である太陽の塔を創り上げた岡本太郎先生を支えるべく、サブプロデューサーの任に着き、地下展示を担当しました。作品、人物ともに魅了されていた岡本太郎先生と仕事をすることに、喜びとともに重圧を感じていたようですが、自身の担当した地下世界から太陽の塔の内部を貫き天に上る生命の樹を見た時は、心から感動したことと思います。 小松左京はSF作家のデビュー前に、学生漫画家モリ・ミノルとして非常に短い期間活躍していたのですが、その頃、子供たちに科学の楽しみを知ってもらおうと描いた進化をテーマとした漫画「ぼくらの地球」が、動く立体物として、圧倒的な迫力で存在していたからです。 太陽の塔、つまりテーマ館の中の展示を岡本さんと考えた。DNAの一兆倍ぐらいの模型をつくり、生物の進化の過程を見せることにした。映画の特撮も駆使してゴジラや恐竜なども現れ、最後に人間が登場する。高さ四十五メートル。「生命の樹」と名づけた。 『小松左京自伝』(日本経済新聞出版社)より  *注 「生命の樹」にはゴジラはいません(何か勘違いしていたようです・・・)。       <万国博を考える会の終焉> 小松左京は「万国博を考える会」の回顧録を次のように締めくくっています   日本万国博は、世界七十六カ国という空前の参加国をあつめることができた。特にアジア、アフリカ、その他の開発途上国が、多数参加し、会場内展示スペースでも優遇されている。テーマ館は無事に出現した。それだけでも、もう成功したも同然だ。万国博そのものについて考えていたことは、すでに協会側の責任ある人々にすっかり渡してしまってあるし、万国博という社会的イヴェントについて抱いた興味はもっと発展した形で、未来学の方にうけつがれてしまっている。二年ほど前から、梅棹氏あたりとしきりに論じはじめていたのは「人類滅亡の可能性とその諸相」といった問題だった。 --三月十四日午前零時を期して、奇蹟のように一斉に開通した大道路をはしりながら、ずいぶん「後始末」に手間を食っちまったものだとぼんやり考えていた。少し疲れ、少し年をとったような感じがした。--そして強い酒が無性に飲みたかった。 新潮文庫『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』より     人類の破滅を回避し、より良い世界を模索する試みは「万国博を考える会」と併行して進められていた「未来学会」の活動へと受け継がれました。

東日本大震災と小松左京

東日本大震災から9年が経ちました。犠牲となられた方々とご遺族に、あらためて哀悼の意を表すとともに、長きにわたり困難な暮らしを余儀なくされている多くの方々に一日も早く安らかな日々が戻られることをお祈りします。小松左京の父方の先祖は、南房総の相浜(あいのはま)の網元であり、幕末におきた安政大地震に遭遇した際、屋敷が津波にさらわれる被害を受けました。地形が変わったことで、それまでの漁場で魚が獲れなくなり網元の仕事も痛手を負いました。 全てを失った翌日、一本の掛け軸が波に打ち寄せられ戻ってきました。 幼かった小松左京は、代々伝わる掛け軸とともに大津波の恐ろしさを聞かされ育ちました。 . 小松家伝来掛け軸 小松左京の母は関東大震災を経験しており、安政の大津波と関東大震災という二つの大災害の記憶から、小松の家には災害に備える家風がありました。 小松左京は1997年の防災に関する講演で、関東大震災での母親の体験談、そして阪神淡路大震災でのボランティアの目をみはるような活躍に言及しています。   私の母は19歳のときに、日本橋の人形町であの関東大震災に遭いました。それでしょうがないんで八王子の親戚のところまで2日間歩いて行った。母の覚えているのは、もうとにかくあっちに火、こっちに火で火事が一番怖いという話と、それから、歩いて行く途中の沿道の人たちの炊き出し、いろいろなものを持っていきなさいという、あの温かさが忘れられないと。でも、恐ろしいですよと言っていたんです。 <中略> それから、今度はボランティアが、これはすごいんですが、140万人が働きました。7割ぐらいは若い人でした。このボランティアはまだちゃんとした社会評価も、それから経済評価もされてないんですね。彼らはみんな、お金をもらわずに働いているんですよ。140万人を雇ってきて、あれやれ、これやれというのは大変なことです。日本の社会の豊かさというものは、あの若い人たちにそういうふうに自分の出費でもって動くことができるだけの豊かさが、そこを支えていたということです。  基調講演「災害・防災の“ビジョン”を描く」(1997年)より   災害に備える文化と危機を乗り越えるために互いに助け合うという精神は、小松の家に限るものではなく、地震や台風、飢饉など様々な災害に見舞われ続けた多くの日本の家庭に、時を超え広く浸透していました。   小松左京は2011年に発生した東日本大震災の被害のあまりの大きさに衝撃を受け、『日本沈没』の作者としての意見を求める取材の申し出を全て辞退しました。そして、絶望のあまり体調を急激に悪化させ、その4ヶ月後の夏に亡くなりました、 しかし、その死を目前にして、この国の未来は「ユートピア」になるという、希望とも取れる最後のメッセージを残しました。 あらゆる取材を拒んでいた小松左京は、一度だけインタビューに応じていました。それは楽しかった子供時代に愛読していた毎日小学生新聞に対してであり、災害直後の日本人がとった沈着冷静な態度に対する世界の反応に対して言及しました。 世界の人がほめてましたね。これは、うれしかった。自然に生かされている日本人の優しさ、だな。日本は必ず立ち直りますよ。自信をもっていい。 毎日小学生新聞(2011年7月16日)より     東日本大震災で世界の人が高く評価した日本人の沈着冷静な態度の原動力は、小松左京の母が関東大震災で体験し、また阪神淡路大震災のボランティアにも見られた日本人の温かさではないでしょうか。 どんなに言葉を尽くしても、被災され、家族、友人、住む場所、数え切れない大切なものを失った人々を心の底から癒やすことは困難です。 けれど、多くの日本人の心の底にある、危機においてもお互いに助け合う、優しさ、温かさこそが、東日本大震災のこれからの復興に、そしてこの国が新たな災難に見舞われた時にも生かされることを心より願います。 小松左京肖像<©生賴範義>

阪神淡路大震災と小松左京

阪神淡路大震災から四半世紀が経ちました。 1995年の阪神淡路大震災は小松左京が愛する国で、大切な同胞が見舞われた恐るべき災難であり、また被害の中心が自分が生まれ育った阪神間で起きた災害であったため大きな衝撃を受けました。 小松左京は、震災から2カ月あまり経った1995年4月1日から、毎日新聞に月1回のペースで『大震災’95』の連載を始めました。 淡路島をはじめとして各地の被災現場をたずね、当時、戦後最大の災害であった阪神淡路大震災の生の記録をとどめようとしたのです。   <「日本沈没 決定版」>解説13~ 阪神淡路大震災への対応(小松実盛) 『日本沈没』を発表後、二十年以上が経過した、一九九五年一月一七日早朝。当時としては、戦後最大の被害を出した、阪神淡路大震災が発生しました。 小松左京は、震災当日の模様を次のように書き残しています。   ヘリ空撮がはいって来た。それはアナウンサーの読む交通体系のダメージ情報どころではない衝撃を私にもたらした。神戸の長田区から、五ヵ所も六ヵ所も、天を暗くするほど茶色の煙が上り、下にまっ赤な炎がちらちら見える。…地震に火災はつきものというが、この火災の大きさと、火点の多さはどうなるんだ。これじゃ周辺に酸欠が起るし、消防車も近くへ行けないぞ!  十階だてぐらいのビルが、ぐしゃっとつぶれている。片脚が折れたように斜めにかたむいている。つんのめったり、のけぞったり、中にはもののみごとにうつぶせにひっくりかえり、道路をふさいだりしている。壁が生皮をはがれたように剥落し、茶色の下地が出ているビルがある。それがどうやら三宮から市役所前を通って税関の方へ行く神戸市目抜きの「フラワーロード」らしいとさとった時、手がふるえてきた。――ヘリは移動し、カメラがズームし、国道ぞいの倒壊家屋をうつし出す。へしゃげた折紙細工のようになった店舗の間に、茶色の木っ端の帯となった木造家屋の残骸がつらなる。鉄道がうつし出され、軌条脇に横ざまにたおれたべージュとオレシジ色の六輌編成の電車や、何編成もの電車の列が、操車場らしい所で、中央部が陥没するようにへたりこんでいる状景がうつる。たおれた電柱、落下したガード……。 「こりゃ、震度6どころじゃないぞ!」と私はかすれた声で妻にいった。「震度7-いやもっと上まわる所だってある……」 妻は眉をひそめて画面を凝視したまま返事をしなかった。  そして――「あの状景」がうつった時、私は腰がぬけた。実際は、急な脳貧血で、下半身に血が移行し、腰から下が岩のように重く感じられたのだが、その時は一瞬そう思った。視界が暗くなり、数秒間色覚がぬけた。それほど「何百メートルにもわたって横たおしになった阪神高速の高架」の映像がもたらしたショックは大きかった。貧血のため、眼球を動かすのさえ重い感じだったが、無理に眼をこらして、その映像をチェックした。根元からぐにゃりと折れ曲った何十本もの橋脚、北側にたおれ、ほとんど垂直にちかい斜めの壁のようになって、下を走る国道四三号線の上り線の上にそびえたっている道路面……思ったより下におちている車の数はすくないな、と、私は膜のかかったような頭の隅で考えていた。――火災もあまり発生していないようだ。朝早く地震が起って、交通量が少なかったのだろう。 「阪神大震災の日 わが覚書」より   小松左京は、『日本沈没』の中で、高速道路が倒れるシーンを書いたところ、耐震工学の権威という方から、人を介してで「高速道路が倒れるはずがない」と非難されたと語っていました。    高速道路をすっとばしていた車は、まず、いくつもの地下道の合流点で、ハンドルをとりそこなって柱にぶつかるもの、追越し途中で接触するものがあいついだ。地下道はたちまち火と黒煙の吹きぬける煙突となり、急ブレーキをかけるとすぐそのあとから、後続車が七、八十キロのスピードでつっこむ、といった玉突き事故が起こった。  高架の上でも同じことだった。ハンドルを切りそこなって、低い中央分離帯をとびこえ、対向車と正面衝突するもの、カーブで、側壁へぶつかるもの、ジェットコースターのコースのように、急カーブと上下の坂が組みあわさっている西神田[にしかんだ]付近では、上下動の初期に空中へ飛び上がった車さえあった。--そして、河川を埋めたてた上につくった部分の数カ所で、高架道路の橋脚はもろくも傾き、道路はひん曲がって、何百台もの自動車を、砂をこぼすように地上にぶちまけた。--洩れたガソリンの上に、団子衝突の火花がとび、たちまち引火する。東京の空からは、火と車の雨が降ったのである。 『日本沈没』より 実は、阪神淡路大震災が起きた朝、この解説を書いている私自身も、仕事の関係で、自宅のある神戸から大阪へタクシーで移動していました。 午前五時四十六分、地震が起きたその瞬間、激しい揺れとともに阪神高速道路上を走っていたタクシーが蛇行してゆきました。 照明塔がメトロノームのようにゆっくりと左右に振れ、道路そのものがまるで水面のように波うちます。そして、グーン、グーンと巨大な金属がきしむ音が響き続けます。 追い越し車線を走っていたトラックが、道路が傾いた時に、吸い寄せられるようにこちらの方に近づき、鏡のようなタイヤホイールに、一瞬自分の顔が映ったのを鮮明に覚えています。 危機な状況でしたが、周辺で玉突き事故や、側壁にぶつかる車両もありませんでした。 まだ、陽ものぼらぬ早朝。高速道路を走るのは、トラックやタクシー、あるいは様々な業務用車両と、運転のベテランがほとんどで、また車両そのものが少なかったのも幸いしたようです。 地震発生直後、スピードを落とし側道に停車しようとする車が皆無だったので、その件を、地震後随分経ってから当のタクシーの運転手さんに尋ねたところ、「あの激しい揺れの中、スピードを落としたら、ハンドル操作ができず、側面に突っ込む可能性もありましたよ。あえて、アクセルを踏み込み、パワーを与えることで、車をコントロールできたのです」と教えてくれました。プロの的確な対応で命拾いしたわけです。 しかし、自分が通過した地点より後ろの阪神高速道路は、六三五mに渡って倒壊し、これに伴い一六人の方が亡くなられています。ほんの数分遅れていたら、自分も命を落としたかもしれない。亡くなられた方のご冥福を心から祈らずにおられません。 神戸を含めた、阪神間を中心に、大きな被害を出した、阪神淡路大震災が発生した、その当日から、『日本沈没』の作者である小松左京に、スポーツ新聞からの問い合わせを皮切りに取材が殺到します。    いずれにしても、これが一週間に二十数回という、活字、電波マスコミの「取材攻勢」の皮切りだった。――スポニチからの電話を切って、十五分もたたないうちにまたかかって来た。今度は共同通信の東京だった。つづいて、東京新聞、いずれも、十五分から二十分の間隔をおき、一回の電話インタビューが、三十分から四十分、それもできるだけ内容が重複しないように、視点をかえたコメントをひねり出すので、頭の中がくたくたになってきた。妻に、書斎に握り飯と茶をはこんでもらい、私は電話の横に居つづけた。電話の間、古い地震関係のファイルや、百科事典、地学関係のテキスト、理化学事典などをひっぱり出して、知識の復習をした。何しろ電話でコメントを求めてくる記者は、すべてまっ先に「日本沈没」の事をいった。たしかに、ベストセラーにはなったが、二十二年も前の作品を、読んでくれている現役記者が、そんなに多いとも思えなかったが、あとで聞いてみると、若い記者は映画やビデオテープで見たり、中には、さいとうたかをさんの「漫画」でよんだ、という人もいて、「時代」というものを考えさせられた。――ダイジェスト版だが、英語をはじめ十一ヵ国語に翻訳されていたためか、あとから「ウォールストリート・ジャーナル」や「ニューズウィーク国際版」「シュピーゲル」「ル・モンド」「レプブリカ」などの編集部、記者のインタビューもあった。 <中略> ――長い長い一日だったが、しかしそれで終ったわけではなかった。その夜、私はまっ赤に燃え上る業火に包まれてうろうろする夢を見た。同じ夢を三日間たてつづけに見て、三日目にやっと、それが五十年前、昭和二十年の八月はじめに経験した、阪神間の夜間大空襲の夢だとわかったのである。 「阪神大震災の日 わが覚書」より   『日本沈没』の執筆の動機となり、生涯付き纏いつづけた、小松左京の心の底にある戦争の深い闇が、目の前で起きた大地震をきっかけに再び広がり始めていました。 戦争の悲惨さを思い起させる大地震の被害の数々、係われば過去の記憶が連鎖的に呼び起こされ、さらに苦しむことになることは十分予想できたでしょう。 しかし、小松左京は、あえてその道を選ぶことになります。あの物語を書いた責任を取るかのように。 震災発生から七五日後にあたる、四月一日より、毎日新聞で一年間にわたって展開する予定だった宇宙をテーマにした連載を急遽差し替え、被災地での取材と地震に関係する各界の権威と対談する、月一回の連載「大震災’95」をスタートさせました。奇しくも、戦争末期に自らが阪神間にある西宮の自宅で空襲を経験してから、ちょうど五十年が経っていました。   あの日から七十五日   きょう一九九五年四月一日は、あの「阪神・淡路大震災」が襲った一月十七日から、ちょうど七十五日目にあたる。  七十五日といえば、つい、人のうわさも……という言葉が思い浮かぶ。もとよりこれは、無責任な者のうわさについての俚言であるが、しかし、その背景には、地震、台風、洪水、大火など、災害の多い風土の中で育った一つの精神文化として、すべてはうつろい行くという無常観と、恢復力の強い自然の中で、いつまでもくよくよ嘆いていてもはじまらない、という諦念をこえる指向の伝統と、通底する所があるようにも感じられる。  だが、私は逆に、この大震災発生以後二カ月余あたりから、この「巨大な災害」が、私たちの社会と生活にもたらしたショックと影響の「全貌」をとらえる作業にとりかかるべきだと思う。 --なぜなら、あの時不意に、阪神間の足もとから牙をむいて襲いかかってきた、私たちにとっても、社会にとっても、まったく「未知の体験」だったあの大災厄のもたらした、衝撃と、どこまで広がるかわからなかった多元的な混乱も、このあたりでやっと鎮静化にむかい、それにつれて、この災厄の複雑な「全貌」と性格も、ようやくぼんやりと把握できるようになってきたからである。  だが一方、六千人を超える死者と、数万人の負傷者、十数万戸の全半壊、焼失家屋、数十万人の被災者を瞬時に現出した、この地域のはげしい痛みと疼[うず]きは、ようやく薄皮のはり出した社会の表面の下に、まだ熱をもって残っている。 --こんな所に、行政効率だけを優先させた軽々しい「復興計画」を、「お上」の方からつきつけたら、厳しい反発がおこるのは当然だ(地域行政末端の不慣れもあったかも知れないが、ようやく生死の境を脱したが、なお病床に呻吟する患者にいきなりペンをつきつけ、遺産を公共に寄付する、という遺言に今すぐサインしろ、と迫るような無神経さを感じさせる)。  いずれにしても、近隣周辺を含めて、この災厄に対する「記憶の痛みと疼き」の生々しいうちに、「総合的な記録」の試みをスタートさせなければならない、と思う。 『大震災’95』より   「大震災`95」第1回原稿  この連載を開始した時、小松左京は六四歳、物語の中の田所博士とちょうど同じ年になっていました。 震源にもっとも近い淡路島をはじめ、各地の被災現場をたずね、地震学者、ガス・電気・水道といったインフラ、自衛隊、消防、マスコミ、さらに精神科医といった様々な方面を取材し、連載第一回で読者に呼びかけたように、この当時、戦後最大の災害であった阪神淡路大震災の生の記録を自らの手で残そうとしました。 しかし、還暦をすぎた老いた身体に鞭打っての震災取材は、自身の思い入れが強かったが故に、心身ともに大きな負担となりました。 この取材を通じて、傷ついた被災地を目の当たりにするにつけ、そして天災だけでなく、人災が被害を広げた事実を知るにつけ、この悲惨な現実が、自らの過去の巨大なトラウマである、戦争と終戦直後の混乱の記憶を、さらに呼び起こすことになりました。   震災の夜から始まった、小松左京の心の底に巣くっていた戦争の闇は、一年あまりの連載で、よりいっそう広まってしまったのです。 …

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